ノート:蝦夷

ページのコンテンツが他言語でサポートされていません。

除去編集の報告:蝦夷は「朝廷に逆らうもの」全般ではない[編集]

蝦夷について、単に朝廷に逆らうものを指すとの記述がありましたが、削らせてもらいました。例えば「隼人が蝦夷である」というような言い方はありませんし、蝦夷の語義がそうしたものだとしたら、蘇我蝦夷のような人名はありえないでしょう。--Kinori 2005年10月16日 (日) 01:15 (UTC)[返信]

情報 上記投稿にある「[...] との記述がありましたが、削らせてもらいました。」は、主ページの2005-10-16 01:11:49 (UTC)の版での編集(特別:差分/3232221)の報告となっています。--Yumoriy会話2024年3月9日 (土) 07:45 (UTC)[返信]
確かに蘇我蝦夷については不思議なのですが。朝廷に逆らうものを「蝦夷」と呼んだ、という話は良く聞きます。「ありえない」ということはないでしょう。 --NiKe 2005年10月16日 (日) 01:45 (UTC)[返信]
NiKe氏と同意見ですが、「えびす」と読む場合などいい意味で使われることが多いように意味が一つではないので何とも言えない(古代の人名では割に在った)。ただ蘇我蝦夷に限ればは天智朝や皇国史観からすれば逆賊扱いなので不整合がない。でもえぞに蝦夷(特に夷)の字を当てるのは中華思想の真似事でしかないので、蝦夷が朝廷に逆らう者を指すというのは通説では確かに存在するでしょう。変な反例(「えぞ」に関係しない)を持ってきて通説を否定するのは少し頂けません。--johncapistrano 2005年10月16日 (日) 03:50 (UTC)[返信]
私はけっこう本を読んだつもりだったのですが、単に朝廷に逆らうものを蝦夷と呼んだとするような「通説」に触れることがありませんでした。どなたでもよろしいので、その通説が書いてある本を一つ二つあげてくれませんか。人名について蘇我蝦夷で納得いかないなら、佐伯今毛人をあげておきます。それと、「変な反例(「えぞ」に関係しない)」とはどういう意味なのでしょうか。古代の蝦夷が「えぞ」と呼ばれていなかったことは常識の部類だと思うのですが、それをおいても文意がわかりません。ひょっとして文の読み方が違うのでしょうか。「又、単に朝廷に逆らう者も指す」とは、地域性や民族性を捨象して一般的に朝廷に逆らうものを蝦夷と呼んだ、という意味にしかとりようがないと私には思えるのですが、違う読み方をしているのですか。--Kinori 2005年10月16日 (日) 04:18 (UTC)[返信]
他人の論を借りますが、[1][2][3]でこの記事で論じようとしているのは「えみし」あるいは「えぞ」と呼ばれた集団についてであって、語義ではないですよね。「えぞ」の読みがいつ生じたのかわからないので「えぞ」に就いて論じているのではないと仰るならそれで構いませんが。人名について論じている訳でもないですよね。用法の変遷に触れるのはいいとして。--johncapistrano 2005年10月16日 (日) 04:35 (UTC)[返信]

最初のリンクにあるのは、蝦夷辺民説によるものです。もし辺民説が通説だと考えているのなら、そのようにおっしゃることは理解できます。エミシは日本人と同一民族であって単に朝廷に反抗した人をいう、ということですね。これは戦後有力になったものですが、今では支持されていません。これに従う場合、古代エミシを後のエゾと同一視することは困難です。リンク先の文章の趣旨は、長らくみな蝦夷をエゾとばかり呼んできたが、古代の蝦夷をエゾと呼ぶな、せめて古代エゾと呼べと言うのです。今、諸学者は古代の蝦夷をエミシと呼びます。古代エゾとはいいません。

さて、それ以前に有力だったのが、蝦夷アイヌ説です。エミシはアイヌであり、エゾもアイヌであるということですから、両者は同じということになります。文献と考古学の材料を並べると、こちらの方に軍配が上がる状況になっています。が、現在通説と言えるのはこれでもありません。

それには二つの要素が絡んできます。一つは、蝦夷にかぎらず古代の民族集団を固定的に考えない見方が主流になったことです。辺民かアイヌかという二分法に制約される必要はないということです。また、前代の民族を後代の民族で割り切っていく考え方への拒絶もでてきます。もう一つ具体的な問題として、古代のエミシと中世のエゾの接続関係がよくわからないという事情があります。少なくともきれいに一対一で対応するものではないと考えられています。そこで現在では、重なりあう部分があるとしても各時代別個の集団として理解しておくべきではないか、時代とともに分かれたり融合したりすることは何も不思議ではないという見方が広まっています。

三番目のリンク先が引用した『蝦夷(エミシ)と倭人』は、この見方にもとづくものです。紹介していただいた冒頭の一文は、世間ではふつう蝦夷をエゾと読むが、私はエミシについて書くのだというただそれだけの説明です。本論ではエミシ文化をアイヌ文化の祖としたり、エミシは古代のエゾだとすることはありません。むしろそういう単純な話にしないことが基調です。

ここまでまとめますと、エミシとエゾが同じ集団で呼び方が違うだけだとするような「通説」はないということです。--Kinori 2005年10月16日 (日) 06:12 (UTC)[返信]

エミシとエゾの別が用法の違いにとどまらないことは理解していただけたと思います。これを別とするか同じとするかは重要な問題であり、言葉の違いがあるだけではないのです。

編集の問題に集中しますと、私が削ったのは、「又、単に朝廷に逆らう者も指す。」です。又、というからには、前の説明が指したものと異なるものを指すのでしょう。前の説明にあたるのは、「日本の東に居住し、政治的・文化的に、朝廷やその支配下に入った地域への帰属や同化を拒否していた人間集団を指した」です。「朝廷に逆らう」点は同じですから、「単に」という部分がその違いを表すことになります。東国がどうこう、政治や文化いかんに関わらず、朝廷に逆らう者は蝦夷と呼ばれるという意味になりましょう。しかし蝦夷は一貫して東国辺境にあり、「単に朝廷に逆らう者」ではありません。そのような定義は誤りです。--Kinori 2005年10月16日 (日) 06:40 (UTC)[返信]

川内論文を参考に手を入れさせてもらった者です。今の学界の動向としては、律令体制期のエミシと現在のアイヌ民族は同じとも違うとも言い切れないみたいです(人によって主張はあるようですが)。あと、朝廷に逆らう者と定義してしまうと、南方諸民族も入ってしまいます。律令期は、華夷思想にならって、太平洋側のエミシを「蝦夷」、日本海側を「蝦狄」(北狄のことらしい)、薩摩隼人を「西戎」、南方諸島の民族を「南蛮」と「主張・表記していた」といったところのようで…。--アズンチャ 2005年10月16日 (日) 07:02 (UTC)[返信]
(Kinori氏へ)上記はスペースを割いて頂かなくても判ってたんですが、
えみし→毛人(この頃朝廷の支配が東国に及ぶ、侮蔑感伴わず。蘇我エミシの元の用字)→蝦夷(東北侵攻始まる、日本書紀編纂)→えぞ
で蝦夷の用字にしたのには何らかの意図が伴うと考えて当然かと。で熊襲にも日本書紀に伴って人名に夷の字が当てられたりという例があったように「蝦夷」を「服はぬ者」を指す例があるとするのは間違いではないでしょう。Kinori氏には限定的な書き方として読めなかったというだけのことかと。文末を「例もある」にすればよかっただけでは? (&アズンチャさんの書かれているような他の表記と列記するなど)
で序でに、エミシがいきなり居なくなって入れ替わりでエゾが立ち現れた訳ではないでしょうからその辺りの研究に興味があります。--johncapistrano 2005年10月16日 (日) 07:22 (UTC)[返信]
Johncapistranoさんが通説を踏んだとはいえない書き方で他人を通説に反すると批判したのは、この問題についてあまり詳しくないからだと思ったのですが、違うのですね。すべて承知の上でしたら、どうか通説をふまえた書き方をしてください。
ともかくこれからはおっしゃる意図をよく確かめることにします。そこで二つ質問させてください。ただ今書かれたことは、熊襲の例が蝦夷についての証拠になると主張したものと受け取ってよいのでしょうか。そして、そうした証明のしかたが通説をふまえたものだとお考えなのでしょうか。--Kinori 2005年10月17日 (月) 01:13 (UTC)[返信]
質問の意図が不明ですが、熊襲の方が先に服属しただけで大体古代を論じる時に同時に扱われるでしょう。熊襲の人名に夷の字が当てられているのも毛人の用字が蝦夷に換えられたのも同じ意図だと書いているだけです。通説という語を用いる意図がよく分かりません。熊襲の項目も薄いですが妥当なものと思います。--johncapistrano 2005年10月17日 (月) 02:59 (UTC)[返信]
ウィキペディアは独自の考察を書く場所ではありません。私やJohncapistranoさんがこの場で一生懸命考えたことは、ウィキペディアに載せる価値がないのです。熊襲の人名に「夷」の字があるから熊襲も蝦夷と呼ばれることがある、という説は、通説なのですか。それともJohncapistranoさん独自の考察なのですか。--Kinori 2005年10月17日 (月) 10:35 (UTC)[返信]
そんなこと書いていません。熊襲についても(対象について)議論があるが、中華思想に倣って蝦夷とともに「朝廷に逆らう者」として扱われた。それが用字の変化と機を一にしている。ということです。--johncapistrano 2005年10月17日 (月) 11:06 (UTC)[返信]
Johncapistranoさんは、「単に朝廷に逆らうものを指す」ことが通説だということを示すために書いたのだと思っていましたが、違うのですか。ただ単に用字についての薀蓄を披露しただけなのですか。私たちはここで「単に朝廷に逆らうものを指す」を残すか削るかについて話しているのですよね。私はこの一文を削ったことを「通説の否定」と言われて驚きました。そこで、いったいJohncapistranoさんはいったいどうしてこれが通説だと考えているのかお聞きしたいのです。ぜひ詳しく解説してください。--Kinori 2005年10月17日 (月) 13:19 (UTC)[返信]
蘊蓄も何も見た侭、熊襲と蝦夷はそう名付けられてからそれまでの敬意もなく征伐の対象になったというだけで、既に明白で改めて説明することは何もありません。--johncapistrano 2005年10月17日 (月) 13:31 (UTC)[返信]
「そう名づけられてから征伐の対象になった」とは誤りです。Johncapistranoさんは、蝦夷という字があてられるようになった時期は7世紀後半とされていることを承知の上でそう主張されるのでしょうか。せいぜいのところ、征伐の対象になったことと用字には関係があるだろう、と言えるくらいです。
あらためてお聞きしますが、「夷」字についてのご説は、蝦夷が「単に朝廷に逆らうもの指す」かという問題に関係するのですか。もし関係があるならどう関係するのかを説明してください。関係がないなら、あらためて、「通説」についてのご説明をお願いします。私は蝦夷(エミシ)については十数冊の本を読みましたが、蝦夷という語が「単に朝廷に逆らうものを指す」ために使われた例を知らないのです。--Kinori 2005年10月18日 (火) 23:57 (UTC)[返信]

横入りしてアレですが、さらに日本古代史は専門外なのでアレですが、熊襲にの字が使われている研究なり史料なりが出てくれば直す、それまではこのままという方向はどうでしょうか。私見を申し上げれば、個人レベルで夷の字を用いた熊襲がいた可能性はあると思いますが、民族レベルではなさそうな気はします。個人レベルであれば、有名人でないかぎりwiki本文に載せるのはどうかと。また、通説(があるのかどうかもよくわかりませんが)を記述するよりも、「A説とB説があり、A説のほうが現在有力である」的な書きかたがwikipediaの趣旨からみてもよさそうに思いますがどうでしょう。そこまで調べるのもホネですが。。
蛇足ながら、エミシは「毛人」→「蝦蛦(虫へんに夷)」→「蝦夷(蝦狄)」と表記の変化があったそうです。って、みなさんとっくに知ってることなのかな…。--アズンチャ 2005年10月17日 (月) 04:27 (UTC)[返信]

「夷」字なら、ありますよ。倭王武の上奏文に、「東に毛人を征すること五十五国、西に衆夷を服すること六十六国」とあります。この西は熊襲とされてします。しかしこれをもって熊襲が蝦夷と呼ばれる例だと唱えるのは愚かとしか言いようがないでしょう。普通名詞である夷と固有名詞である蝦夷を混同しているのです。
併記についてですが、学界で一定の支持が得られている説ならば、多少変に思えても載せるべきです。が、ウィキペディアンの説ならば内部でどれほど多くの支持があろうと載せるべきではありません。--Kinori 2005年10月17日 (月) 10:35 (UTC)[返信]
単に異民族であった者を「朝廷に逆らう者」として扱ったことを問題にしているのですが、論点をどんどん変な方にずらすのは止めませんか。--johncapistrano 2005年10月17日 (月) 11:06 (UTC)[返信]

倭国と日本[編集]

「日本の東に居住し」が「倭国の東に居住し」に書き換えられましたが、これはあまりよくない表現だと思います。古代エミシの存続期間は平安時代までです。その頃の日本を「倭国」とは言いません。古墳時代には日本ではなく倭であったわけですが、その頃の倭を日本と呼ぶのはよくあることです。他の言語では平安時代の日本を倭と呼ぶこともあるかもしれませんが、日本語版なのですから日本語で落ち着きが良い表現にするほうがいいと思います。--Kinori 2005年10月18日 (火) 23:57 (UTC)[返信]

「日本」という国号の開始と日本人の形成は全く別の問題でしょう。また、「都加留」が固有名詞である集団という説はどこから出てきたんでしょうか? あと、ソースを示されていないので先走っているかもしれませんが、「越の渡嶋」を「北海道」に結びつけるのは伝承にすぎない(道県史で触れられているにしても)ので根拠とするには無理があるでしょう。[4] --johncapistrano 2005年10月26日 (水) 03:21 (UTC)[返信]
都加留については、新編日本古典文学全集『日本書紀』の注、熊谷公男『古代の蝦夷と城柵』、高橋崇『蝦夷』をあげましょう。
さて、わざわざ質問したからには、Johncapistranoさんは都加留は津軽ではないという説をどこかで読んだのですよね。私はそうした説を読んだことがありません。どこで知ったのかぜひ教えてください。
渡島北海道説については、新野直吉『古代東北の兵乱』、工藤雅樹『蝦夷の古代史』や『古代蝦夷』、樋口知志「渡島のエミシ」(『古代蝦夷の世界と交流』所収)、中村英重「渡島蝦夷の朝貢と交易」(『古代の東北』所収)をあげておきます。渡島(おしま)は明治時代はじめに松浦武四郎が命名したもので、渡島(わたりしま)に連なる伝承はありません。古代の渡島と今の渡島に連続性がないことは、北海道史の初歩に属することです。古代の渡島がどこにあたるかは、近代の歴史学で争われた問題で、現在は北海道が通説化しています。
そしてこの場合には、Johncapistranoさんの情報源はその渡島支庁農務課のサイトなのですね。その種のサイトをよりどころにするのは、不勉強を宣伝しているようなものです。蝦夷については良い本がたくさん出ています。どうか調べてから書いてください。--Kinori 2005年10月26日 (水) 11:25 (UTC)[返信]
報告 戻しました。Johncapistranoさんは、コメントで本文に埋め込む形で、蝦夷が北海道に居住したことのソースを求めると記しました。これに対する答えとしては、『蝦夷と倭人』を挙げておきます。先にJohncapistanoさんがウェブ上の転載ページを通じて参照した本です。--Kinori 2005年11月18日 (金) 10:44 (UTC)[返信]
何を書かれているのかよく判りませんが、「ウェブ上の転載ページ」って何ですか? 日本人が形成されていない時期に「日本人から」と注釈なしに書くのはおかしいと思います。また引用は正確にした方がいい、関東や東北南部に住んだ毛人について省くのは不適切、と思います。--johncapistrano 2005年11月18日 (金) 10:52 (UTC)[返信]
転載ページとは、上であげた三番目のリンク先、[5]です。そのことはずっと上で指摘しました。
「7世紀には」関東地方に蝦夷と呼ばれた人たちはいません。磐舟柵は蝦夷に備えて作られたもので、そこに蝦夷が住んでいた証拠にはなりません。
ただ、日本を本州に改めた箇所は、Johncapistranoさんの編集が適切と思います。この箇所の修正は見落としておりました。すみません。--Kinori 2005年11月18日 (金) 11:12 (UTC)[返信]
7世紀後半に関東で蝦夷という表記がみえないからといって「毛人」と呼ばれた人がいなくなった訳ではないでしょう。現新潟については日本書紀に史実性に問題があるとはいえ越の蝦夷、蝦狄に関する記述は沢山あるようですが? --johncapistrano 2005年11月18日 (金) 13:13 (UTC)[返信]
そのような説をどこで読んだのですか。ソースを示してください。なお、出羽建国(712年)以前の越は広域です。7世紀頃出てくる蝦夷は今日の新潟県ではなく、むしろ秋田県、青森県あたりと受け止めるのが自然です。--Kinori 2005年11月19日 (土) 07:47 (UTC)[返信]

情報 このセクションの中途に登場する「戻しました。」との報告(2005年11月18日 10:44 (UTC))は、主ページの2005-11-18 10:39:16 (UTC)の編集(特別:差分/3585706)を指すものと考えられます。ご参考までに。--Yumoriy会話2024年3月9日 (土) 07:45 (UTC)[返信]

蝦夷が神武天皇東征軍を迎撃?[編集]

解決済み議論を経て2008-01-11の編集が実施されました(特別:差分/17138927/17296916)。--Yumoriy会話

本文に『日本書紀』に、神武天皇の東征軍を蝦夷が大和地方で迎え撃った。とありますが、そういった記述は『日本書紀』に無いのでここは全くの誤りですね。

ご無沙汰しております。任那の件以来ですね。さて、『日本書紀』の神武東征記事中に蝦夷は「愛濔詩」という表記で出てきます(巻第三神武即位前紀戊午年十月の来目歌の中にあります)。国文学上の解説書でも「えみし」と読むとされており、また、高橋崇1986でも伝説上の蝦夷として紹介されています。なお橿原神宮では今も新嘗祭で詠われています([6]参照)。『日本書紀』の本文も御覧ください。久留米さんとの間で編集合戦はしたくありませんのですぐにはrvしませんが、御確認いただけましたら御返答ください。記述を復活させたいと思います。--ろう(Law soma) D C 2008年1月7日 (月) 01:25 (UTC)[返信]
ただ、この来目歌の記述をもって神武天皇の東征軍を大和地方で迎え撃ったのが蝦夷であったとする『日本書紀』解釈は一般的なんでしょうか?--久留米 2008年1月9日 (水) 17:13 (UTC)[返信]
確かに「一般的か」と問われれば、微妙ですね。読み方が「えみし」である以上、同音であることから後世言われる「蝦夷」と、少なくとも強い関連性が伺われるとは言えると思いますが。蝦夷に関する文献的考察の書物でも、神話時代のことは無視している本がありますので、「どんな本にも書かれている」ほど「一般的」ではないとは思います。しかし、ここで言われている「愛濔詩」が「東方の異民族視された集団」であることは確かでしょう(その集団が後世言われる「蝦夷」と同一かは不明ですが)。ただ、ここは書きようだと思います。例えば、
蝦夷「えみし」についての形式上最も古い言及は『日本書紀』にあ愛濔詩であり、神武天皇の東征軍を大和地方で迎え撃ったのが蝦夷彼らであったと記述されている。しかし神武天皇や東征の実在性には疑問が残るため、確実な史料としては、これを蝦夷についての最古の記録とみなすことはできないと考えられている(高橋1986)。日本書紀に従えばヤマト王権と敵対する東方の集団が蝦夷なのだが、書紀には7世紀から8世紀頃の歴史認識が反映された部分があるとみられており、古い時代の蝦夷の民族的性格と居住範囲については諸説ある。
ではどうでしょう?--ろう(Law soma) D C 2008年1月10日 (木) 00:28 (UTC)[返信]
『日本書紀』神武東征記全体では大和地方で迎撃した勢力を蝦夷扱いしてる感じはしないですし、そうした見解が一般的でもないようです。来目歌の一つに詠まれているだけで、「神武天皇の東征軍を大和地方で迎え撃ったのが蝦夷」ということを前提とした論理を展開すべきではないでしょう。また、ここで問題とすべきは「神武天皇や東征の実在性」ではなく、「この来目歌の史実性」や、「ここで登場するえみしがはたして後の蝦夷を意味するかどうか」ではないでしょうか。そのあたりを考慮して
蝦夷「えみし」についての形式上最も古い言及は『日本書紀』神武東征記中に詠まれている来目歌の一つに愛濔詩として登場する。
 えみしを ひたりももなひと ひとはいへども たむかひもせず
(訳:えみしを、1人で100人に当たる強い兵だと、人はいうけれど、抵抗もせず負けてしまった)
しかし、この来目歌がどの程度史実を反映するものかどうかは判然とせず、またここで登場する「えみし」が後の「蝦夷」を意味するかどうかも判然としないため、古い時代の蝦夷の民族的性格や居住範囲については諸説があり確かなことはわかっていない。
このようにしてはどうでしょうか。--久留米 2008年1月10日 (木) 13:57 (UTC)[返信]

────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────(インデント戻します)確かにおっしゃるように大和地方で迎撃した勢力が蝦夷と言っている地の文はありませんので、例示の文で結構だと思います。了解しました。--ろう(Law soma) D C 2008年1月11日 (金) 01:42 (UTC)[返信]

Izayohiさん、ありがとうございます。私自身だと書きにくいと思っていました。--ろう(Law soma) D C 2008年1月15日 (火) 02:18 (UTC)[返信]