ノート:彦根市

ページのコンテンツが他言語でサポートされていません。

ひこにゃんこの覚え書き[編集]

  • ひこにゃんこ様による覚え書きを本文より削除し、保存・提示します。
歴史の節のうち、下記の記事に添えてコメントアウトとなっている長文(大正生まれのひこにゃんこ様による覚え書き 2010年10月19日)を、本文から削除した上で、ここに保存し、ウィキペディアン(ご本人でなくてよい)による再編集を促す意図を籠めて提示します。ひこにゃんこ様には「削除しないでほしい」とのことですが、「本文中の裏書き」として埋没している状態で活かされる機会がやってくるとは思えず、それよりはむしろ、ノートに専用の節を設けて明示した上で、大いに編集のテーブルに載せるべきと考えた次第でして、何卒ご納得戴けますようお願い申し上げます。なお、本項には無いノートの特性として、ひこにゃんこ様の原文は保存され、改変されずに済みます。
非常に興味深く意義ある内容が多く含まれていますので、要点を分割・抜粋して本文に組み込むことを検討すべきですが、残念ながら、ひこにゃんこ様が自ら要約欄にて明かされている(「大正生まれの覚え書きで御座居ます。削除なさらずに「彦根市」ページの何処かへ移し替えるなどして何卒残す方針で編集してくださいませ」)とおり、「覚え書き」であって検証可能性を満たしていません(※但し、これを私が書き込んでいる時点の本項「彦根市」は、マニュアルに照らせば検証可能性ゼロの状態[そもそも脚注・出典の節自体が無い]で、不備はひこにゃんこ様に限ったことではありません)。ウィキペディアンとしては、大正生まれの方(…と言っても、失礼ながらそれもまた、検証可能性を満たしていませんが…)の貴重な証言に出典を添えて本文の記事とすることが望まれます。
整理しないと活かすことも難しい状態ですので、ノート上のこの節は、今後その作業に活用できればと思います。本文化した部分を書き込むなどすれば分かりやすいでしょうか。--Cyclops 2011年8月6日 (土) 15:47 (UTC)[返信]
  • 1889年7月1日:彦根駅東海道本線)が開業。当時の通称名は「大駅(おほえき)」。ある時期まで単に「彦根駅」という場合は近江鉄道の現彦根口駅を指していた。
  • 以下がコメントアウトとなっていた文章です。
彦根口は今でも往時の木造駅舎であり、大東亜戦争戦時中には米戦闘機により客車だけの汽車が機銃掃射を受け非戦闘臣民が大量に甚大無残なる被害を受けた。当時、若者はみな徴兵に取られていたので不在、かつ軍人など一人も乗り居らぬ、婦女子を含む年寄りと女子供を主とする一般臣民ばかりがすし詰めに乗っていたところ、非戦闘員の客車であるを知りてなほ米軍戦闘機乗りは人狩りよりもなほ非道な「猿狩り」と称する遊びで、弾薬の豊富なるをいたづらにいたづらに使い、重爆撃機の装甲を破る機銃により米戦闘機のりが機銃掃射したため、ある者は脚が根元から吹き飛び、ある者は腕が根元から千切れ(このような無残な重体の者ほど痛みも死ぬ恐れも感じておらず、まれな軽傷者ほど大騒ぎしておったのが不思議であった。)、ある者は胴体が千切れ即死せるなど大量の重死傷者を出し、東沼波村村民を主として、当時はもう大八車ではなくリヤカーを大量に出して彦根駅(彦根口駅)から学校へ救護のために運んだが、あまりの大量の重傷者のため治療も間に合わずまた当時の医療状況では手の施しようがない重傷者ばかりであったので、ほとんどが亡くなった。なお、当時まさに中央であった中央町の最寄りに彦根駅を建造する鉄道省の案であった。しかし、彦根の徹底せる保守的風土から、彦根駅建設の際、彦根駅が彦根町の中央に来ることを嫌ったため、この中央町の最寄り駅とする鉄道省第一次案は廃止された。この鉄道省案は当時の地政学上もっともなことで、彦根の中央たる中央町と、それにつながる青果市場と上恵比須と花街と土橋から久左の辻にかけた河原町(現銀座町。現銀座町は新しくできた商店街である。)に近い位置に建設する鉄道省の第一次計画案を蹴り、彦根駅は当時としては辺鄙なところであった外町(とまち)に、かえって豊富な建設用地を得て大貨物ターミナルを要して滋賀県の産業商業の要地であった彦根の陸運を担い、駅舎自体は緑と白の木造駅舎として建造されたと記憶する。なほ、近江鉄道線において彦根駅の両隣の駅たる、モダンな鳥居本駅と、クラシカルな古典的木造駅舎の彦根口駅は当時の駅舎のまま現存せるのでご一覧あれ。考察するに、鉄道省第一次案の「彦根中央中央町最寄り駅彦根駅」は、背後に、多賀大社、高宮宿、140戸を擁する大所帯集落東沼波を含む大集落千本六か村などの要害地の配置を地政学として勘案してのことであった。さらに、これらの要害地は、地政学上好ましい配置で、ぢもとの民だけが知る多賀大社~高宮宿~東沼波~上恵比寿~久左の辻~河原町~土橋~中央町というほぼ一直線の道(ルート)が古くから存在し、その中間点である猿尾の踏切近傍に彦根駅を建造することはもっともな案であると思量する。なほ、平安の御代から、彦根山は京(みやこ)から巡礼の聖地として崇(あが)められ、都人(みやこびと)の篤い信仰心を集めていた。彦根山はまたの名を、金の亀の現れたるを敬して、金亀山(こんきやま)といふ。徳川家康の家臣、ひこにゃんのモデルである鬼の赤兜の猛将で知られる戦国武将井伊直政が彦根に転封されて来たり彦根山に居城したるまでは、彦根では領主居城は、石田三成治部少輔につきていはれたる「三成に過ぎたるものが二つあり。島の左近に、佐和山の城。(みつなりにすぎたるものがふたつあり。しまのさこんに、さわやまのしろ。)」とまで詠われた、不滅不落の佐和山山頂の大要塞「佐和山城」であり、神代から彦根山はもろもろのいにしへのかみがみと諸仏諸菩薩のまします信仰のための非常なる神聖な山であった。京(みやこ)が俗なる都市であったのに対し、彦根は神聖都市であるという「神俗双子都市」の関係であった。この関係は、箱根木細工入れ子人形の様に、聖なるみやこ京と俗なる都市江戸、聖なる江戸城と俗なる江戸城下、など、関係が無限遠に上方下方へ展開敷衍されてゆく経済人類学によって知られた関係構造体をなす。彦根山におはしたかみがみと諸仏諸菩薩は、彦根藩井伊家により北野天満宮を中心として彦根山よりややびわ湖よりに祭り替えいただいてより井伊家代々篤く祀られ、現在も北野天満宮を中心とした凝縮された一大聖地に篤く祀られておはさはれていやはりおはす。ちなみにこの北野天満宮のそばには謎の大道が存在し、飛鳥の古代高速道路「古代道」であろうと推量される。この彦根山への信心は、多賀大社におはすイザナギとイザナミへの信心や、記紀のヤマトタケルノミコトが浩宮徳仁皇太子殿下が平成22年10月13日に山登りを生業としたる者共も掛けまくも畏く驚きたる御健脚でたったの四時間半で御登頂なされたときこへめさる伊吹山なるヤマタノオロチを退治せしとき重き怪我を負うたるを、居醒の清水(醒ヶ井、現米原市内)でその怪我を治した歴史や、「伊吹山、その妹の美濃(岐阜)の山、伊吹山よりやや高し、妹の山、姉の(伊吹)山より頭が一つ、高き山でありしことから姉である、伊吹山の女神のその怒り、美濃(岐阜)の女神のその山が、その首刎ねらるそのや、びわ湖に跳びてその首が竹生島、となりて首の丈(たけ)だけ、美濃(岐阜)の山、低きになりて伊吹山より、わずかに低きその山に、なりたるとぞ美濃(岐阜)の山のその首や竹生島、となりてその霊験、あらたに弁財天、祀られしとぞ竹生島、掛けまくも畏き女神がおはすその畏れ、疎かにせずが近江人(おほみびと)、伝へしこそと、いふものなれや。」という神話に対する信仰を背景としていたか?なににせよ太古聖地巡礼地彦根山へは京(みやこ)より熱心な巡礼もうでが盛んにあった。往時、京(みやこ)から彦根山まで至る「巡礼街道」という巡礼せし人々専用の京-彦根山間の近道の街道までありて、今もその巡礼街道は健在で、その道を京(みやこ)から彦根山まで歩いて辿れる。

外部リンク修正[編集]

編集者の皆さんこんにちは、

彦根市」上の4個の外部リンクを修正しました。今回の編集の確認にご協力お願いします。もし何か疑問点がある場合、もしくはリンクや記事をボットの処理対象から外す必要がある場合は、こちらのFAQをご覧ください。以下の通り編集しました。

編集の確認が終わりましたら、下記のテンプレートの指示にしたがってURLの問題を修正してください。

ありがとうございました。—InternetArchiveBot (バグを報告する) 2017年10月4日 (水) 11:33 (UTC)[返信]