ノート:府屋

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府屋について、「第一次情報だ」とか「第三者情報を」の指摘がある。しかし、府屋の研究者はどこを探してもいない。よって、他の出典などない。府屋のようなピンポイント情報は、地域の人しか分からない。筆者は地域の人で府屋の情報提供をしている。それを独自研究と言われても、どうしてみようがない。 --大川忠秀会話2024年4月5日 (金) 22:34 (UTC)大川忠秀[返信]

➁筆者80歳。様々な指摘を受けるが、何がどうなのか、どうすればいいのかさえ分からない。仕方なく指摘部分を削除するのみ。アドバイスがあればいいのだが・・・。 大川忠秀--大川忠秀会話2024年4月6日 (土) 12:18 (UTC)[返信]

  • コメント こんばんは。府屋に関する編集、ありがとうございます。ウィキペディアでは、信頼できる情報源によって書かれていることと第三者から見て検証できることが重要であるため、自分はこのように聞き伝えている、というような独自研究というものが書けないルールになっています。「山北町誌」や地域の郷土誌、新潟日報などのニュースは信頼できて検証できるので書くことができますが、自分がこのように経験しているから、というのは、その方がいなくなった後に第三者から検証できないためルール上はダメです。提案なのですが、大川さんは郷土に関して詳しいようですので、村上市の郷土の研究に関する書籍を書かれて村上市の図書館に寄贈して所蔵してもらう、ということはできないでしょうか?以前、ボクが胎内市の胎内川について調べていたときに、胎内市の図書館にあった郷土誌が参考になったことがあり、そのような書籍があれば、府屋に関して後世の人でも検証できるようになるのではないかと思いました。--tail_furry会話2024年4月6日 (土) 14:51 (UTC)[返信]

③アドバイスありがとうございます。山北町史は・山北村史には古代の「府屋」については何も書いてありません。年金族のため上梓する力もありません。今世の中が目まぐるしく変わっています。開発もあります。我々の年代がいなくなると、府屋の様子はわからなくなります。そんなこんなでWikipediaに頼った次第です。なんとか府屋に住む人たち育つ子供たちに伝えておきたい、そんな願いからの取り組みです。願いが叶うような別のやり方はないものでしょか? --~~~~大川忠秀 --大川忠秀会話) 2024年4月6日 (土) 22:22 (UTC) ④神明宮を修正してみました。なおも不備がありましたらご指摘ください。実際、どこがどうなのか、暗中模索の心境です。大川忠秀--大川忠秀会話2024年4月7日 (日) 06:13 (UTC)[返信]

  • 大川忠秀さん宛 村上市の教育委員会の市史編さん室に情報を提供されるのはどうでしょうか?あるいは、調べられた歴史について新潟日報に投書されるのはどうでしょうか?ボク自身大谷沢に縁があるため府屋に関する情報が失われてしまうのは心が痛みます。Wikipediaでは検証できない独自研究は他の編集者によって除去されてしまう可能性が高いため、後世の方が検証できるように何か第三者が検証できる書物、あるいは新聞などのメディア、信頼できる情報源にあてはまる地元の書店やウェブメディアなどに記録を残されるように動くのが良いと考えます。--tail_furry会話2024年4月7日 (日) 09:50 (UTC)[返信]

④情報を頂きありがとうございました。ここで書いていいのかどうか迷いましたが、実は都岐沙羅柵について5年程調べています。それをwikipediaに投稿しましたが、3回ほど削除され、立ち入り禁止寸前まで行きました。それで、wixを利用しHPを立ち上げました。それはそれとして、wikipediaにも掲載してみたくなり、取り組んだものです。なにしろWIXのHPより、wikipediaの知名度・信頼度が抜群だからです。もうすこし頑張ってみます。また、アドバイスをお願いします。大川忠秀--大川忠秀会話2024年4月7日 (日) 11:16 (UTC)[返信]

大川忠秀さん、はじめまして。Prel1hと申します。大川さんの「府屋」に関する執筆に関しまして、各所に「独自研究」や「要非一次資料」等のテンプレートを貼った者でして、突然一方的に行った処置にご気分を害されたことと思われますので、この点に関しましてひとまずお詫び申し上げます。
ただ、このノートページにおける上記tail furryさんとのお話合いや、かつて(2022年10月)大川さんの会話ページにて、佐藤莞嬴さんがすでにご指摘されておりますが、執筆者自身が直接聞き取った情報や、一次資料の参照をもとに執筆者自身が分析し考察した個人的見解などは、Wikipedia全体で定める3大基本方針①「独自研究は載せない」②「検証可能性」③「中立的な観点」のページ(さらに④「ウィキペディアは何ではないか」もありますが)を読みますと、記事本文に載せるべきではないと明記されており、大川さんご自身「仕方なく指摘部分を削除するのみ」とご悲嘆なされておられましたが、残念ながら一部そうせざるを得ない状況でした。
大川さんが、お住まいの府屋地域の歴史・地理・文化の面で見聞きしたことや経験されたことは、間違いなく事実・真実でしょうし、誰も否定しませんが、3大方針の定めるウィキ本文として書いて良い物事の基準は、『「真実かどうか」ではなく「検証可能かどうか」』です。「二次資料と言われてもない物はない」と仰ってしまうと、自ら記述不可を認めてしまうことになってしまいます。
ちなみに大川さんは「wikipediaの審査人も、ある人は了とし、審査人が代わると了としない。誠に不思議な世界。審査人の信憑性は何に求めればいいのか?」と、人によって基準が揺らぐと仰られました。この「審査人」とは、私を含め大川さんの記述を削除・改変するなどした一般編集者(ウィキペディアン達)のことと推察します。大川さんがそれら「審査人」ごとに内容の許容差があったと感じられた場面について、私の改変以外の場面を直接確認はしておりませんが、本来、ウィキの運営や一般編集者の中に「審査人」という立場や職階は存在せず、万人が、個々に上記3大方針に従って他者の編集を相互に検証しております。方針に従う限りそれが「審査人」の信憑性となりますので、基準に差が出るとすれば、削除した側が方針から逸脱している可能性もあります。
また、一次資料(古典籍や古文書、近代以前の地誌など)を読んでそれらに書かれた情報をもとに「とすれば〜と考えられる」「〜であることが見て取れる」など、本文の主語が執筆者自身と考えられる書き方は、執筆者自身の見解・主張・知見を述べていることになり所謂「独自研究」と見做される可能性が高いです。ウィキペディアは自身を三次資料一次資料を分析・研究した二次資料(学術論文や専門書籍等)をもとに、現状の知識を集積した百科事典)と位置付けておりますから、ウィキペディア本文自体が二次資料(分析・研究の場)と化すわけにはいかないです。
長々と前置きを述べてしまいましたが、私が気になっておりますのは、大川さんが仰った、府屋の文化や方言に関する二次資料が「無いものは無い」というのは本当でしょうか、ということです。私は南関東在住者で、新潟県など日本海側にほとんど行ったことのない人間ですが、こちらで村上市の公式サイトをみますと、「歴史資料と発掘調査報告書」のページに「山北地区の歴史資料」として『山北町の文化財』、『山北町の民俗』(1〜5巻)、『山北町民俗論集』(1〜5巻)『山北町の昔話』(1~5巻)という市の(かつての山北町の)教育委員会が編集した民俗学系資料が掲載されていました。古本屋サイトで表紙をみましたが、『山北町民俗論集』などは複数の研究者が寄稿した学術論文集のようですし、地域方言や文化について書かれていそうですが、これらは全てお読みになられましたでしょうか?府屋の記事にて引用されている参考文献には『山北町史』や『村上市史』『新潟県史』がありましたが、これらの論文集は掲載されていないように見受けられました。
また、学術論文の検索と一部ダウンロードも可能なリポジトリサイト、『J-STAGE』にて、ためしに「新潟県 村上市 方言」と検索しましたところ、一例ですが、大橋純一「新潟県阿賀北地域における語中・尾ガ行音」『社会言語科学』2004年7巻1号pp.30-40というPDFファイルでダウンロード可能な論文が出てきており、新潟県北部の方言発音について分析されているようです(府屋地域にどれほど触れているかはざっと見ただけではわかりませんが)。ほかにも「山北町 府屋」と検索すると、伊倉久美子・太田陽子「朝日山地西縁の完新世海成段丘と地殻変動」『地学雑誌』2003年112巻3号pp. 394-405という、府屋の大川流域の地質について分析している論文などが出てきました。そのため、府屋(もしくは新潟北部)に関して、何らかの形で触れている学術誌と論文は存在していそうな感がありました。
これらは国立国会図書館にも置いてありますし、不特定多数が閲覧可能な、典型的な信頼できる情報源二次資料です。
『山北町民俗論集』ほか、あらゆる学術文献をあたった上で、府屋に関する「二次資料など無い」の結論にいたったならば、本当にウィキに書きこめる府屋の情報は無くなったと言えますが、これらの情報をあたればまだまだ存在しているのではないかと思うのです。大川さんが聞き取りをされた「明治生まれの古老」から、同じように聞き取りを行って学術誌にすでに上げている研究者がいるかもしれません(言語学か、社会学か、あるいは歴史学かはわかりませんが)。J-STAGEなど、学術リポジトリシステムを駆使して検索を続けられてみてはいかがでしょうか?
せっかくお書きなったものの多くを削除する結果となり、大変申し訳ありません。それを招いた私として、可能な限りお伝えできる事を申し上げた次第です。--Prel1h会話2024年4月9日 (火) 16:23 (UTC)[返信]

⑤お騒がせしています。様々な情報をもとにもう一度挑戦してみます。削除したものはワードに取り込んであるので、確かめながら「府屋」を作り上げてみますが、私の能力で事足りるかどうか・・・。ご指摘の二次資料となるものは、私の情報リストにはありませんでした。参考になりました。ありがとうございました。それにしても、wikipediaは難しいですね。特に府屋の地理・言語・地名のようなピンポイント情報は、研究者の飯の種にもならないでしょうから。大海からゴマ粒を拾うような感じかもしれません。 ところで、1948年米軍の写真は何時資料ですか?これは過去の状況を知るうえでとても参考になるので伺っています。また、地理院地図電子地理webからの、写真:3D画像も土地の高低差を視覚化するうえで有効のように思われますがどうでしょうか? またいろいろ書き込みますので、ご指摘ください。ダメの線引き部分は小生の方で削除します。大川忠秀--大川忠秀会話2024年4月10日 (水) 08:41 (UTC)[返信]

大川さん、こんにちは。Prel1hです。平日多忙により直ぐにご連絡お返し出来ずレスポンスに時間がかかりますがご容赦ください。
「(府屋の情報について)大海からゴマ粒を拾うような感じかもしれません。」と仰いましたが、意外に、ゴマ粒はすでに海から見つけられた後かもしれません。新潟大学OPACを検索しましたら、
という、府屋地域だけに絞り込まれてはいないものの、府屋に関する記載が含まれていそうな資料がまだ出てきました。
ほかにも
と、いうのもありました。まだ可能性はあると思います。余談ですが、『大川の流れにそって-古老の話から-』を編纂された「山北町郷土史研究会」の「工藤隆秀」という方は大川忠秀さんご自身で、ご自身でお書きになった著作なので引用を控えられていたのでは?と、つい揣摩臆測してしまいました(ハンドルネーム「大川忠秀」の文字や「古老」という単語など、共通点が多かったため)。なお、仮にそうだとして、ウィキの参考文献に用いるのは、既に公表された出版物であるため、自著作物の持込みと著作権上の注意点をクリアし、ご自身の主張・喧伝を意図した恣意的な記述をしない限り可能です。第三者に代わりに引用してもらう手もあります。
「1948年米軍の写真は何次資料ですか?これは過去の状況を知るうえでとても参考になるので伺っています。また、地理院地図電子地理webからの、写真:3D画像も土地の高低差を視覚化するうえで有効のように思われますがどうでしょうか?」の件につきまして、私は国土地理院から画像を引用したことはありませんが、一次資料的な性格が強いのではないでしょうか?
画像や図面は、文字(文章)と違って、それそのものが自身を解説する能力を持っていません。例えば、府屋の航空写真や3D画像を掲示して大川流域の地形を説明したい場合、通常キャプション(画像に対する説明文)が必要になります。それらを書く際に、画像を載せた人間が自身の知っている情報を基に「この画像の右上は河岸段丘があり…」や「画像左下の沖積地には自然堤防が発達し…」など記述しても、他のウィキペディア読者は、航空写真であれば「そこに写っているのは本当にキャプションの言う通りの地形かな?(他に文字化された資料はあるのかな?)」となり、3D画像であれば「この画像作成のベースになったデータはなんだろう」となり、結局その根拠の提示が求められます。まして、「〜である事が見て取れる」や「〜と判断できる」などの記述にすると、書く人の考察や推論が加わり、独自研究の問題になりかねません。
ここから言えるのは、画像や図面は、それ自体が本文の記述内容を証明する存在なのではなく、二次資料に裏打ちされた本文の側を視覚的に補強(解りやすく)する存在である、ということではないでしょうか。1948年(昭和23年)の米軍の航空写真で言えば、キャプションとしてはそれが「米軍による1948年(昭和23年)撮影の写真」であると言うとこまでは(引用元の国土地理院のサービスが言っているため)書けますし、3D画像でも「〇〇よりの地図情報をベースに作成」などは述べられますが、何がどう写ってて何を示しているか、などを述べ加えるとなると、それらだけでなく、ある程度文字化された情報源も必要ではないかと。したがって、画像そのものは一次資料的と言えると思います。
余談です。大川さんが府屋の「明治期の府屋村」の項で用いられた「府屋周辺の遺跡や地形・地質など」とする地図画像ですが図内の文字として個人名に「氏」をつけられてますが、ウィキ記述のガイドライン(スタイルマニュアル)によれば、個人名には敬称不要だそうです。--Prel1h会話2024年4月13日 (土) 15:06 (UTC)[返信]
⑤お忙しい所、多くの情報を頂きありがとうございます。合格点が頂けるようにやってみます。多くの情報が新潟大学にあるようですので、そちらで探してみます。工藤先生は私が中学生のとき、社会科を教わった先生です。私はしがない素浪人です。もう65年も前の話です。米軍写真や3D画像ににこだわるのは、砂丘があること、大川左岸にΣ型旧河道があること、中島通りがあったことなどを、画像で可視化すれば、地形が読み手に伝わるのではとの意図です。以前、県の担当者と都岐沙羅柵について話をしたとき、「中島通り」のことをこまごまと話したら興味を示してくれました。このことも可視化の動機です。でも取り扱いがなかなか難しいようですね。それ故、慣れてきたらやってみようかと思っています。おんぶにだっこの様相を呈してきましたが、終点に辿り着くまでお力をお貸しください。--大川忠秀会話2024年4月15日 (月) 10:23 (UTC)[返信]

⑥凝り性もなくまた似たようなことをやりました。お時間がありましたらご指導いただければと思います。--大川忠秀会話2024年4月17日 (水) 12:06 (UTC)[返信]

大川さん。一部手を入れさせていただきました。通常、参考文献は、学術雑誌や書籍のタイトルは二重カッコ→『〇〇』で囲い、章のタイトルや論文のタイトルはカギカッコ→「〇〇」で囲います。引用文もカギカッコまたは専用のテンプレートを用いるなどがあります。”〇〇”で囲うことは通常しません。また、「参考文献」の項がありながら、脚注上にのみ表示された文献や、本文内にそのまま記載された文献などがあり、体裁が不統一のため、今後修正にご協力いたします(あまり素早くはできませんがご容赦ください)。--Prel1h会話2024年4月18日 (木) 14:14 (UTC)[返信]
Prel1hさん。お力添えに感謝申し上げます。お陰様であちこちバラバラだったのが、スッキリしました。まだまだよちよち歩きですので、ありがたいかぎりです。これからも独りよがりの文言が連なりましたら、ゲンコツをお願いします。--大川忠秀会話2024年4月19日 (金) 10:21 (UTC)[返信]
中島=中州は県内大学理学部の○○先生です。県内の方です。メールの問い合わせに応じて頂いた際のご指導です。先生は磐舟柵の地質調査にもかかわったとおっしゃっていました。一昨年ごろ退任されたようです。wixHPのころはいらっしゃったのですが、その後メールをしてもエラーでした。勤務先の手前があると思い、先生のお名前を記すことを避けていました。それ故、了解を得ぬまま今日に至っています。府屋の中洲の研究はあるのかないのか不明です。どうしてもなければ、旧河道が舌状台地の下を通っていること、砂丘東側に旧国道7号線が通っているのは(米軍写真に見える国道)、かつての「大川を利用した国道」との推測をあげ「中州」の要件を満たせないものかと考えていますがいかがでしょうか?Prel1h。--大川忠秀会話2024年4月20日 (土) 06:29 (UTC)[返信]
大川さんこんにちは。Prel1hです。
「府屋の中洲の研究はあるのかないのか不明です。どうしてもなければ、旧河道が舌状台地の下を通っていること、砂丘東側に旧国道7号線が通っているのは(米軍写真に見える国道)、かつての「大川を利用した国道」との推測をあげ「中州」の要件を満たせないものかと考えていますがいかがでしょうか?」の疑問につきましては、以前にもお話しました通り、執筆者自身の考察や推論は本文に適さないため、大川さんが直接連絡を取られた元N大学のK先生が、当該地形(府屋の中島=中洲)に関する研究をされ、それに言及した論文を発表されているか否かによると思います。
その先生は、産業技術総合研究所の地質調査総合センターの地質文献データベースのほか、学術研究者のデータベースのリサーチマップResearchmap)や、国立情報学研究所の運営する学術論文・書籍データベースCiNii(サイニィ)でその方のお名前での検索をしますと、数多くの論文を発表されていることがわかります。新潟県域を対象にしている論文もいくつか見受けられます。なかなか大変な作業ではありますが、これら論文の中から、当該地に言及した論文を探してみるしかないかと思います(PDFで電子データがダウンロードできないものは、新潟大学や県立図書館などで探す必要があります)。
なお、CiNiiで見つけましたが、そのK先生以外の方々の論文もあたるのであれば、新潟県地学教育研究会『新潟県地学教育研究会誌』という学術雑誌があるようです。府屋の中島=中洲の意だと考察している既存の論文もあるかもしれません。
【別件】
①「表層地質図」の項。「府屋沢西の塊は、シルト岩・泥岩・凝灰岩。東の塊は、泥岩・砂岩・褐炭。東塊の北側に道路造成で削られたところからは、常に水が滴り落ちている。高岩寺(標高約8m)の南に、1955年には山北村役場(現村上市山北支所:標高約1一帯は標高約15mの場所に寺の水田があったと住職は話す。小さな池でもあったという。」の箇所ですが、こちらも現住職の方からの、執筆者自身による聞き取りとなり、本文としては不適切となってしまいます。現住職の方がこう発言したのを収録した出版物か、現住職ご自身が出版されたものがあれば良いのですが。
②『大川古城主大略記』という江戸時代の史料(※一次資料に近い概念です)についてですが、ネット検索ではその存在や、研究・分析した研究論文等がヒットしませんが、どなたかがこれを現代の出版物として再活字化(※いわゆる翻刻)したことがある史料でしょうか?。原本が府屋にのみ伝存して、出版物として公に出ていない(誰かが客観的視点から研究して公表した経緯のない)史料であるならば、これもウィキの参考文献としての資料に適合しない可能性があります。これを取り扱った出版物はおありでしょうか?ご確認いただけると幸いです。--Prel1h会話2024年4月23日 (火) 13:15 (UTC)[返信]
Prel1hさん、ご指摘ありがとうございます。いろいろなところ、「やっぱり」とも思っています。府屋周辺の文献はなかなか見つからないのが現状です。でも探してみます。--大川忠秀会話2024年4月23日 (火) 22:38 (UTC)[返信]

Prel1hさんお世話になっています。昭和40年に山北村教育委員会が「山北村郷土史」を発行しています。編集者は山北村郷土史研究会です。A版全397ページ。この中に「天明元年・安永9年と大川氏の末裔と名乗る大川新三郎が祖先の城址尋ねて来ている。新三郎は敬之助とも称し、出羽庄内酒井左衛門家中と言うことになっており、庄内黒河に住んでいたという」(p26)と、一行半ほどの記述があります。巻末の「主な参考文献」として「大川古城主大略」は、載っていません。なお「大川古城主大略」には「安永子年(九)中(1780)秋発五日快晴にして、五ツ半前、大岩川村ヨリ鼠ケ關弁財天の霊場をを拝し、夫ヨリ艤して、越後大川郷府屋町に至る。云々)があり、「天明元年(1781)辛丑九月十八日早朝湯温海を出立、~鼠ヶ関を通りて~岩砂の海浜を通り~大川郷府屋町につ着きぬ。」 とあります。とりあえずのご連絡です。--大川忠秀会話2024年4月25日 (木) 08:40 (UTC)大川忠秀[返信]

大川さん、こんにちは。
【上記の件】
『大川古城主大略記』について、翻刻された史料ではないらしいこと、了解いたしました。翻刻されていない史料の場合、出典として使用するのは困難と思いますが、すでにその史料について考察をしているらしき文献(『文芸さんぽく』6号)を挙げておられますので、それに載っている当該史料の記述を引用される形でしたら、使用可能と思われます。
【別件①】
大川さんが、使用した参考文献を本文中にお書きになられている件に関してです。Wikipediaは自らをインターネット上の個人サイトやブログ等ではなく、万人が読める「百科事典」と位置づけておりまして、個々人が好きな時に編集をすることを許してはおりますが、本文の体裁や書式について編集参加者全体が共通に遵守することが望まれているガイドライン=スタイルマニュアルが設けられています。
大川さんは、記述をされた箇所について、その典拠となる参考文献(およびページ番号、出版年等)を本文段落の末尾にその都度お書きになられておられますが、スタイルマニュアルによると、本来、参考文献(とくに紙印刷された実体のある資料、本類)は、記事下段に「参考文献」の項を設けてそこに一括して記載するのが基本でして、本文の段落毎に都度都度で参考文献情報を記載することは通常しません(→スタイルマニュアル/レイアウトの「記事の構成」の項を参照)。
これだと、記事の中で本文と参考文献が遠くに離れてしまい不便と思われるかもしれませんが、その対応として、本文の末尾で典拠となる参考文献を直ぐに参照(パソコンやスマホの画面でのポップアップ)できる「脚注」の機能と、「出典テンプレート」という参考文献情報の記述様式が設けられています。多くのウィキペディア執筆者はこれらを使用しております。
これらを使用すると、本文の末尾に「[1]」や「[2]」、あるいは「[注釈]」などの青色の小さい表示が現れます(なおこれらは句読点「、。」より前に入れます)。それを押すと、「脚注」の項にある情報(著者名+出版年+ページ番号)が表示(ポップアップ)され、さらにそれを押すと「参考文献」の項の書誌情報が表示されるようになります。
大川さんが本文中に参考文献を載せられた箇所に関しまして、私の方で参考文献を移動し、脚注付きに再編集させていただいておりましたが、百科事典の体裁をなるべく統一するためにも、大川さんご自身でもチャレンジしていただくことが望ましいかと思いご案内させていただきました。
最初は難しいかもしれませんが、ひとまず、
  1. Wikipedia:スタイルマニュアル
  2. Wikipedia:スタイルマニュアル/レイアウト
  3. Help:脚注
  4. Wikipedia:出典テンプレート
をご参照され、編集画面を「ソースを編集」モードにして、お気の向かれた際に記述方法の習得にもチャレンジしていただければと個人的には思います。
【別件②】
上記内容とはややズレますが、大川さんの記述のなかに、アラビア数字アルファベット、スペース、丸括弧などで半角文字・全角文字が混在した箇所が見受けられます。Wikiのガイドラインでは、アラビア数字やアルファベット、スペースは「半角」、丸括弧は「全角(※特に日本語が入る場合)」など、割と細かい決め事が存在します。
Wikipedia:表記ガイド」に詳しく書かれておりますので、こちらもよろしければご参照くださいますようお願いいたします。--Prel1h会話2024年5月1日 (水) 15:09 (UTC)[返信]
大川さん、追記です。
(筆者註:〜)という記述をされておられましたが、こういった記述も通常使われておりません。本項でも私が設定しましたが、補足的な文言を加えたい場合、脚注の項の中に「注釈」を設けて記載します。なお、「筆者註:斥候セッコウ=偵察兵」の箇所に関しては、「斥候」という記事が既に存在しているため、そちらにリンクさせました。--Prel1h会話2024年5月1日 (水) 16:11 (UTC)[返信]
大川さん、さらに別件ですが追記です。
本記事「地形・地質」の「古くから残る広い土地」の「神明宮」や「常楽寺」などのいくつかの節で、「〇〇年の創建時、自力で土地を造成したのか、何の跡地を利用したのかもわからない」や「〇〇年以前は何に使われていたのか不明である」などの記述をされていますが、本当にそれらが「不明」「わからない」かどうかは、「不明だ」「わからない」と書かれた資料が存在しなければ言い切れません(大川さんがまだ未発見の資料もあるかもしれないからです)。いわゆる「無意味な記述」とまでは言わないまでも、執筆者自身の所感と同類と捉えられかねないので、修正が必要かと思われます。--Prel1h会話2024年5月1日 (水) 23:34 (UTC)[返信]
Prel1hさん、いろいろと体裁を整えていただきありがとうございます。立派なものになりました。感謝の念でいっぱいです。ご指摘の無意味な表現「不明・わからない」については確かに主観だけの言葉に見えるので削除の方向に進めます。府屋の投稿もだんだん終着駅に近づいてきました。この辺りで〆のような感じです。これからは、言い回し・変換ミス訂正が主になろうかと思います。またご指摘のマニュアルに沿った投稿も試みたいと思いますが、私の能力の範疇を超えているようで心配なところもあります。前の見えないことをマニュアルの読み違いでエラーが表示されると。次にどう進めればいいのか、これまでのことに影響はないのかとドギマギします。触る事さえ躊躇います。それ故、様々なご指摘部分が今後1ヶ月以内に直されていないときには、「大川は能力なし」としてPrel1hさんから「おんぶ・抱っこ」の面倒をみていただければありがたいです。いつもお願いばかりで申し訳ありません。--大川忠秀会話2024年5月2日 (木) 22:43 (UTC)[返信]
Prel1hさん、無意味な記述の部分ですが、未練がましいというか、往生際が悪いというか、思いきりが悪いというか、何か代わりのいい表現はないものかと躊躇っています。--大川忠秀会話2024年5月3日 (金) 07:06 (UTC)[返信]
大川さんこんばんは。ご連絡が遅くなり失礼いたしました。
誤解が無いよう申し上げますが、上記話題としている大川さんの記述について、いわゆる「無意味な記述」に該当しているとは思っておりません。同マニュアルの「以下に挙げるものは無意味な記述ではありません」の節にもありますが、ウィキペディアでは、問題点があっても改定が可能な記述については、単純に削除せずに可能な限り書き直して良くして行くことが推奨されております。
さて問題の「(執筆者を主語として)解らない・不明である」と言う書き方をどうにかする、という件につきまして、幸いどの箇所にも出典をお書きになられているので、たとえば「〇〇年以前に何に使われていたのか不明である」と言う記述ならば、「〇〇年以前に何に使われていたのかについては、(引用した)『〇〇町史』には記載がない。」などとすれば良いのではないでしょうか?
御一考のほどよろしくお願いいたします。--Prel1h会話2024年5月5日 (日) 13:02 (UTC)[返信]
Prel1hさん、お忙しい中を、いろいろとありがとうございます。深いところまで教えていただき感謝です。もう一度読み直し、ご指導の点をちりばめてみます。ありがとうございました。--大川忠秀会話2024年5月6日 (月) 02:08 (UTC)[返信]
大川さん、こんにちは。
「ご指導」などと形容していただけるほどのことは何もしておりません。大川さんの、郷土府屋に関する事績を後世に残そうとされる心意気と、百科事典Wikipediaをより良く編集しようとされている熱意に可能な範囲でご協力しようとしただけです。恐縮です。
なお、このほかで見つかりました府屋に関する資料としまして、
があり、「大川城」に関する項目があるようですので、お知らせいたします。--Prel1h会話2024年5月10日 (金) 09:14 (UTC)[返信]
Prel1hさん、日本城郭体系の情報、ありがとうございます。大助かりです。。府屋も奥が深く、あれもこれもとつぎ込んでしまいました。何とか着地点に落ち着けばと思っています。いまだおんぶにだっこ状態ですが、よろしくお願いいたします。大川忠秀--大川忠秀会話2024年5月12日 (日) 10:42 (UTC)[返信]
Prel1hさん。ご厄介になっています。日本城郭体系の大川城。読んでいると情景が見えます。こんなに詳しく書いた書籍は初めてで興奮しました。ありがとうございました。--大川忠秀会話2024年5月15日 (水) 11:53 (UTC)[返信]
大川さん、こんにちは。お役に立てて光栄です。少々多忙のため、参考文献・脚注の配置換えは、私がやったほうが良いのであれば後日行います。何卒ご了承ください。
なお、『日本城郭大系』の書籍名は『体系』ではなく『大系』です。--Prel1h会話2024年5月16日 (木) 11:25 (UTC)[返信]
Prel1hさん、ご連絡いただきありがとうございました。体→大になおしました。「参考文献・脚注の配置換え」などは、やっぱり私には手順が見えず無理です。お忙しいところ申し訳ありません。ぜひお願いいたします。--大川忠秀会話2024年5月16日 (木) 22:31 (UTC)[返信]