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観点・独自研究タグについて説明[編集]

  • このタグづけにつき説明申し上げます。
    • 全体における中立的観点について
      • (そもそもキリスト教において「孝」の字が使われる事は現代では殆ど無いにも関わらず)記事の分量がキリスト教に多くを割いているのは、少々奇異な感じが致します。
      • 儒教における孝は否定的側面を多く割いて説明しているのに対し、キリスト教における孝については(繰り返しますが、そもそもキリスト教において「孝」の字が使われる事は現代では殆ど無いにも関わらず)肯定的説明に終始しています。
    • キリスト教節における中立的観点について
    • 独自研究について
      • 手許に今ありますのはカトリック教会のカテキズムのみですが、カトリック教会のカテキズム648頁には、「おきてを守らなければ、共同体や各個人に大きな損害が生じます。」とはありますが、「反対に、親に不孝な人間は、あの世だけでなく、この世でも罰を被る」とは書いてありません。そればかりか、十戒の第四のおきてを解説する647頁・648頁において、「祖父母や祖先に対する尊敬、愛情、感謝」とは書かれて居ますが、「孝行」「孝」の字はどこにも見当たりません。
      • もともと、「孝」自体が(私は漢籍・中国思想に全く暗いのですが、一般的には)孔子などの著書、儒教の文脈の中で理解される事が多いものであり、キリスト教では(少なくとも現代では)あまり使われる事の無い概念・漢字であると私は感じております。明治時代に翻訳された聖書でも、「孝」の字を見た事がありません(打消し線につき後述します--Kinno Angel会話2015年6月10日 (水) 10:44 (UTC)。実際、カトリック教会のカテキズムの該当頁にも、「孝」の字はありません。[返信]
      • 古い公教要理にはあるのかもしれませんね。しかしそれは「かつて『孝』の概念を流用して、十戒の第四戒が説明された事もある」といった記述に止めるべきでは無いでしょうか。
      • 「祖父母や祖先に対する尊敬、愛情、感謝=孝」である、だから問題無い、と執筆者はお考えになったかもしれません。しかし儒教節における「孝」の捉え方と、それでは矛盾が生じないでしょうか。

以上がタグづけの理由です。--Kinno Angel会話2015年6月10日 (水) 10:21 (UTC)[返信]


コメント 全く汗顔の至りなのですが…。気になって念の為調べてみましたら、日本正教会訳聖書ティモフェイ前書5章4節に「孝敬」がありました…。汗顔恐縮、お恥ずかしい限りです…穴が有ったら入りたい。なお、口語訳聖書にも同じ箇所で「孝養」がありますね。ちなみに口語訳聖書では他にテトスへの手紙1章6節で「親不孝」という言葉が出て来ますね(ただしこちらは日本正教会訳聖書では「孝」の字は出て来ず、「不順」となっています)。一方で、新共同訳聖書には「孝」はヒットしません(口語訳聖書・新共同訳聖書のいずれも[1]を検索に使用)。

従いまして「明治時代に翻訳された聖書でも、「孝」の字を見た事がありません」に打消し線を引きました。全くの無知です、申し訳ありません、御赦し下さい。

なので私の主張の根拠のうち、約3分の1ほどは崩れた事になります。

私の主張の中では、「儒教節との量的・内容的なバランスという中立的観点」と、「現代ではあまり使われない説明手法(「孝」の字を使うこと)について、古い出典をメインとする事への疑義」が残る事になります。以上、お詫びと報告まで…。--Kinno Angel会話2015年6月10日 (水) 10:44 (UTC)[返信]