ノート:上原清吉

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>御殿手伝承の歴史は上原清吉の口承しか存在しない点から、

本部家のほうからも証言が出てました。JKFan5月号参照。——以上の署名の無いコメントは、220.209.238.252ノート/Whois)さんが 2006年4月23日 (日) 12:54 (UTC) に投稿したものです(三畔 2011年4月26日 (火) 12:15 (UTC)による付記)。[返信]

何か勘違いされておられないでしょうか?
いつから歴史学は自称資料だけで充分とされるようになったのでしょうか?
「琉球王家秘伝武術であった」ことを史実と主張するのならば史料を示すべきでしょう。
「琉球王家秘伝武術であった」と伝わっていてることと、それを史実だということは別です。210.170.214.248 2006年4月24日 (月) 12:26 (UTC)[返信]

本部御殿は琉球王族ですよ。国王に世継ぎがいなければ、 国王を出すかもしれない王家のメンバーです。それじゃ、 琉球王族秘伝・本部御殿手ならいいわけですか?——以上の署名の無いコメントは、222.151.94.211ノート/Whois)さんが 2006年4月24日 (月) 12:56 (UTC) に投稿したものです(三畔 2011年4月26日 (火) 12:15 (UTC)による付記)。[返信]

貴方が書いた内容は、「本部御殿の家系」についてだけです。
御殿手の本部朝勇先生以前の伝系を証明するものではありません。210.170.214.248 2006年4月24日 (月) 13:07 (UTC)[返信]

なるほど。でも、御殿手にかぎらず、空手の歴史は資料では、明治以前には遡れないんですよ。どんなに戦前から研究者が古文書を探しても「唐手」の二文字はでてこないのです。沖縄の武術の歴史は全部、伝承なんです。御殿手だけ、証拠を示せ、といわれるのはフェアじゃないですね。——以上の署名の無いコメントは、222.151.94.211ノート/Whois)さんが 2006年4月24日 (月) 13:09 (UTC) に投稿したものです(三畔 2011年4月26日 (火) 12:15 (UTC)による付記)。[返信]

伝承であるのならば、なぜ敢えて断定したのですか?
伝承と史実の区別は武術史研究の初歩だと思いますが。
また、なぜ「異説がある」という記載すら頑なに拒否したのですか?210.170.214.248 2006年4月24日 (月) 13:18 (UTC)[返信]

「証拠」に基づかなければ、「異説」じゃないですよ。「こういう別の資料が ある」とか、そういう主張は建設的です。ただ「疑問だ」だけでは、意味がない。 どんな流派も伝承でしか、その歴史を説明できないのに、御殿手だけ、責めるの はフェアじゃないですよ。——以上の署名の無いコメントは、222.151.94.211ノート/Whois)さんが 2006年4月24日 (月) 13:23 (UTC) に投稿したものです(三畔 2011年4月26日 (火) 12:15 (UTC)による付記)。[返信]

勘違いされておられるようですが、私個人は御殿手を責める意図はありません。
琉球王家秘伝武術である御殿手が存在したのであれば、それでも構いませんし、存在しなかったのであれば、それでも構いません。
ただ、現時点では琉球王家秘伝武術であることを史実とする論拠が足りないと思います。
この点は、「琉球王家秘伝武術であった」と主張する方々に是非頑張って史料を提示していただきたいと思っております。
疑問点を提示することを否定的に捉えておられるようですが、疑問点を克服することによって論拠が補強されたケースもありますので、一慨に否定的に捉えるべきではないと思います。210.170.214.248 2006年4月24日 (月) 13:35 (UTC)[返信]

うんうん。そういう議論は有意義だとは思います。ただそれはここでできる量には収まらない。 どこかの掲示板とかでないと。——以上の署名の無いコメントは、222.151.94.211ノート/Whois)さんが 2006年4月24日 (月) 13:40 (UTC) に投稿したものです(三畔 2011年4月26日 (火) 12:15 (UTC)による付記)。[返信]

そう書いておられても、しっかり記事は元に戻してますね。
将来のいずれかの結論のために、疑問点の記載を残すお考えはありませんか?210.170.214.248 2006年4月24日 (月) 13:49 (UTC)[返信]

疑問点は追加で書いていますよ。ただあなたの書き方だと、一般に読めば、 御殿手への誹謗と感じられるから、改めただけです。議論したいのなら、 武板にきてください。——以上の署名の無いコメントは、222.151.94.211ノート/Whois)さんが 2006年4月24日 (月) 13:54 (UTC) に投稿したものです(三畔 2011年4月26日 (火) 12:15 (UTC)による付記)。[返信]

>疑問を呈する研究家もいたが、近年、新資料の発掘や、本部本家からの証言などにより、解明に新展開があった。
私の書き方が誹謗と仰いますが、この書き方だと、既に疑問点は決着したという印象を与えると思いますがね。
>また、本部御殿は琉球王族だが、国王家ではないから琉球王族秘伝・本部御殿手にすべきだと主張する人もいるようだ。
少なくとも私はこのような主張をしてませんが。この部分は、全く手をつけていませんね。210.170.214.248 2006年4月24日 (月) 14:56 (UTC)[返信]

記事を書く際は、客観性に心掛け、出典に根拠(出版物など)のある文章を書くようお願いします。ネット上の「うわさ」などに基づいて書くのは遠慮ください。——以上の署名の無いコメントは、220.209.240.204ノート/Whois)さんが 2006年5月31日 (水) 17:30 (UTC) に投稿したものです(三畔 2011年4月26日 (火) 12:15 (UTC)による付記)。[返信]


晩年の項目に書かれている『上原清吉が八光流柔術の講習を受けた記録があることから、本部御殿手の取手術は八光流の影響のもとに創作されたという説があったが、本部御殿手側の資料提供により、この説を唱えた研究家が雑誌上で謝罪するなどして、八光流起源説について否定された』 とありますが、具体的にはどのような資料が本部家から提示されたのでしょうか? また研究家が雑誌上で謝罪したとありますが、何と言う雑誌の何年の何月号に記載された話なのか?出典の提示をお願いいたします。この件については検索をかけてもそれに相当する話がウィキペディア以外では見つからないのですが。(私の検索が下手なだけかもしれませんが)

--219.188.178.200 2007年1月27日 (土) 21:43 (UTC)[返信]

取り入れた?[編集]

>その一方で僅かな期間に学んだ大東流や八光流の技術を参考にしたり取り入れる事によって新たな新興流派を立ち上げた者(日本少林寺拳法宗道臣(中野理男)、神道天心流上野貴合気道植芝盛平など)も多く存在するが、その多くは大東流や八光流を学んだ事実を隠匿する傾向が強い。

これらの人物が八光流の講習会に参加していても、技を参考にしたり取り入れたというのは、執筆者の憶測ですよね? 八光流がそう抗議した事実はありますか?また、具体的に検証されたことはあるのでしょうか。なければ、独自研究になります。--ホルン 2009年11月2日 (月) 10:25 (UTC)[返信]

あと、師範銘鑑に道場の写真が載っていると書いていますが、私が持っている本には写真は載っていません。どの本のことですか?--ホルン 2009年11月2日 (月) 10:28 (UTC)[返信]

取り入れたか?[編集]

「大東流、八光流を学んだ事実がある」と言う事と、「学んだ事実を意図的に隠していた」事が問題の要点です。

具体的に技術をどこにどう取り入れたかどうか?は、大東流とそこから派生した合気道や八光流の間でさえ論争が多々あり、日本柔術の技法はどれも大同小異と言う指摘をする方までいるので、そう言う指摘はしていないです。ただし上原清吉と言う人物が確実に奥山龍峰の講習会に参加して講習、指導を受けていると言うのは事実である筈ですし、大東流系武術の見解から言えば奥山と上原がごく短期間の師弟関係を持ったと言う事になります。上原が凡庸で暗愚な人物ならば奥山の講習会は殆ど意味も価値もないものとして忘却の彼方に忘れ去られたでしょうが、なまじ優れた人物であると言われているがゆえに、全くの無関係、無影響を主張するのは難しいと思います。

八光流の内部資料に関しては10年ほど前に閲覧する機会があったのみなので、建物の写真が掲載されていないとしたら私の記憶違いの点があるのでしょう。(顔写真は載っていたのは記憶にあり)沖縄では上原氏ともう1人の方が師範として掲載されていたと記憶があります。お手元に所持されているのならどなただったかご教示下さい。

2009年11月10日(火)——以上の署名の無いコメントは、219.188.176.32ノート/Whois)さんが 2009年11月9日 (月) 17:22 (UTC) に投稿したものです(三畔 2011年4月26日 (火) 12:15 (UTC)による付記)。[返信]

全く論点が違いますね。学んだ事実があるということと、技を参考にしたとか取り入れたかという事実は別問題です。意図的に質問をずらさないで下さい。日本少林寺拳法の宗道臣(中野理男)、神道天心流の上野貴、合気道の植芝盛平、本部御殿手の上原清吉は、八光流以外の(あるいは以前に)別の柔術流派や沖縄古来の取手を学んでいますね。こうした技法のうち、どの部分が八光流から技を参考にしたり取り入れたのか、貴殿の記述を証明する文献を示して下さい。例えば、はっきりと技を取り入れたと書かれた文献や、各流派の技法を比較検討して技を導入したことが証明できる文献などです。単にセミナーに参加した事実だけで「技を取り入れたんだろう」という貴殿の思い込みなら、独自研究になります。あと上原清吉が意図的に学んだ事実を隠したというのは、どの文献に載っていますか?
八光流の師範銘鑑には道場の写真は載っていません。沖縄出身の人は複数載っていますね(兼島氏等)。--ホルン 2009年11月10日 (火) 22:50 (UTC)[返信]
意図的に質問をずらしたとのご指摘ですが、武道の系譜は「開祖や伝承者が何を何処の流派を学んだ事があるか?」と言う事を考え方の基に置く事になります。それこそ本部御殿手や多くの沖縄唐手のように文献資料が無い流派では尚更の事です。(Aと言う流派とBと言う流派を学び新たにCと言う流派を創始したと言う来歴を明らかにしている流派の方が極めて特殊な存在です)
私個人としては大東流と合気道は大同小異の流派と考えますが、合気道学習者の中には合気道と大東流は全然違うと言う主張をされる方も多々います。自身の学ぶ流派が別の流派の影響を強く受けている(又は大同小異)と言う類の意見を快く思わないのも人情だと思いますが。
沖縄武術は太平洋戦争の影響のせいか?文献資料が殆ど無いと言うのが史学的な弱点だとは思います。沖縄独自の取手と言う主張も、本当に沖縄唐手の体系に取手と言うカリキュラムが広く普遍的に存在したのか?と言う総合的な研究や論文を私は見た事がありません。沖縄唐手には当身技だけでなく逆手や投げ技も存在すると言う話は以前から聞きますが、その辺りを系統的に纏めた研究資料や論文は存在するのでしょうか?
沖縄地方の元となっている琉球王国は清朝に朝貢を行い冊封関係にあった国であり、実質的には薩摩藩の支配を受けていた、ある意味文字文化の国です。にも関わらず唐手に関する資料文献(内地武術における伝書や巻物、中国武術における拳譜の類)が殆ど存在しないと言う事実は相当に辛いものがあると考えます。戦火の中で燃えてしまったのか?元々その様な物は存在しなかったのか?剛柔流系に伝わる武備志以外に知りません。本部御殿手が本当に長い歴史を持つ流派であるのならば何らかの資料や外部伝承があってしかるべきだと考えます。
上原清吉が八光流の講習会に参加したと言う事実を自身から率先して語ったという事実や記述、資料があるのでしたらご教示下さい。ウィキペディアは可能な限り客観的な記述であるべきであると思います。あまりに排他的な流派内でのみ通用する主張を前面に押し出すのは如何なものかと思います。上原清吉は短期間八光流を学んだ事があり技術的影響を受けた可能性があると言う点は記載されてしかるべきでしょう。
私は生前の上原氏に手を取って頂いた事がありますが、その手首の取り方は大東流、八光流の手首の取り方と同じであったのに驚いた記憶があります。あの取り方は日本柔術の中でも特殊な手法ですので。
2009年11月12日(木)——以上の署名の無いコメントは、219.188.176.32ノート/Whois)さんが 2009年11月12日 (木) 10:31 (UTC) に投稿したものです(三畔による付記)。[返信]
まず文章を整形させていただきました。またご自身の文章の末尾には署名をお願いします。どうも意図的に質問をはぐらかせているようですので改めて質問します。日本少林寺拳法の宗道臣(中野理男)、神道天心流の上野貴、合気道の植芝盛平、本部御殿手の上原清吉は、八光流以外の(あるいは以前に)別の柔術流派や沖縄古来の取手を学んでいますね。こうした技法のうち、どの部分が八光流から技を参考にしたり取り入れたのか、貴殿の記述を証明する文献を示して下さい。例えば、はっきりと技を取り入れたと書かれた文献や、各流派の技法を比較検討して技を導入したことが証明できる文献などです。単にセミナーに参加した事実だけで「技を取り入れたんだろう」という貴殿の思い込みなら、独自研究になります。
>上原清吉が八光流の講習会に参加したと言う事実を自身から率先して語ったという事実や記述、資料があるのでしたらご教示下さい。
貴殿のお話はすべて貴殿の当て推量や感想で、文献に基づく記述が一つもないように思います。今一度、検証可能性をお読み下さい。そこには「百科事典を編纂する際、良い記事を執筆するためには、広く信頼されている発行元からすでに公開されている事実、表明、学説、見解、主張、意見、および議論についてのみ言及すべきです」とあります。そこで、再度尋ねますが、上原清吉が意図的に学んだ事実を隠したというのは、どの文献に載っていますか? Wikipediaでは、個人の感想や体験は文献にはなり得ませんので。--ホルン 2009年11月12日 (木) 22:47 (UTC)[返信]

以前は署名を入れていましたが最近は面倒なのと、入れ方が詳しく判らないので最近は署名はやめました。利用者としての登録はしていません。

ホルンさんは本部御殿手に何らかの関係がある方なのか?執拗に否定論を展開されたいようですが、私が事実として記しておきたいのは、「上原清吉が短期間八光流を習った事がある」と言う点と「八光流を学んだ事を自身からは明かさなかったらしい」と言う点だけです。技術の影響性に関してご執心のようですが、武術のような同流内でも変質しやすい技法に関して、どこどこのこの部分はこの流儀から来ていると言う指摘が出来る事の方が特殊なケースであると思います。(八光流の技術的な影響があってもなくても構わないので) 私は1つ前に書きましたが上原清吉の小手の掴み方は大東流や八光流と同種の方法であったと言う指摘を行っています。

逆にホルンさんに問いますが本部御殿手と八光流柔術が全く関係が無いと言う事を証明して頂きたく思います。また八光流側が勝手に上原清吉を利用、師範名簿に掲載したと言う事を証明して頂けないでしょうか?

また沖縄古伝の取手なる技術は本当に独立して存在したのでしょうか?詳しい解説を頂きたくお願い致します。取手に関しては私が琉球唐手に詳しくないせいもありますが、取手術と言う名称や技法体系で本部御殿手以外では私は見聞した事はありません。

私の意見は文献に基づく記述がないとの事ですが、古伝の琉球唐手や本部御殿手の古文書に基づく記述と言うものがあるのでしたらご教示を願います。本部御殿手に関しては上原清吉以前の記録や文献、資料が全くないと私は理解しております。(これは大東流における武田惣角以前も同じ状況ですが)それとも私が単に存在を知らないだけで上原清吉以前の文献や古文書などが存在するのでしょうか?

なお上原清吉が八光流を学んだ事の出典は綿谷雪氏の武芸流派大辞典と所有はしていませんが、八光流の師範名簿(詳細な名称は失念)です。

2009年11月25日(水)利用者:A——以上の署名の無いコメントは、219.188.176.32ノート/Whois)さんが 2009年11月24日 (火) 21:59 (UTC) に投稿したものです(三畔 2011年4月26日 (火) 12:15 (UTC)による付記)。[返信]

何か勘違いされているようなので改めて申し上げますが、Wikipediaの記事は検証可能性が求められます。例えば、誰かが「上原清吉に技を掛けてもらったが本土の柔術とは似ていなかった」と書いても、それはその個人の「感想」「体験」であり、第三者はそれについて検証ができません。極端な話、いくらでもその種の「体験話」は捏造できます。貴殿の「似ていた」という話も同じ種類のものです。これはWikipedia:独自研究は載せないに抵触します。
また、非公開の「内部資料」というのも出典にはなりえません。これも第三者がアクセスすることができないので、その情報が本当かどうか検証できないからです。もし非公開の内部資料が出典になりうるなら、執筆者はいくらでも自分に都合のいい「内部資料」をでっち上げることできるからです。詳しくは検証可能性のページを御覧ください。
大東流の歴史が真実か否かも、記事の執筆者は証明する必要はありません。あくまでも大東流側が公開の著作や資料で述べている歴史を紹介すればいいのです。検証可能性のページに、
>ウィキペディアに執筆してよいかどうかの基準は「真実であるかどうか」ではなく「検証可能かどうか」です。
とあります。もしそれに対する反論があるなら、反論の出典を挙げればいいわけです。しかし、出典を挙げることができずにただ執筆者の主観で反論するのなら、それは独自研究になりWikipediaの編集方針に反します。--ホルン 2009年11月25日 (水) 00:28 (UTC)[返信]

ホルンさんの懸命さは理解出来ますが「検証の可能性」と「非公開の内部資料が出典になりえない」のであるとしたら、本部御殿手なる流派が本当に上原清吉以前から存在した流派なのか?と言う事自体が全く検証されていないと言う事になります。何ら資料も存在せずに昭和以降に出現した流派のどこが検証されているのでしょうか?

「検証」を辞書で調べると「実際に物事に当たって調べ、仮説などを証明すること。」とあります。ホルンさんは証明する必要がないと書かれていますが実に矛盾する発言であると言えるのではないでしょうか?

ホルンさんは上原清吉が八光流の師範名簿に載ってはいるが、それは勝手に八光流側に掲載されて利用されたものであると書かれていますが、何ら証拠も出典も示されていません。また私が問うた「古伝の琉球唐手や本部御殿手の古文書に基づく記述と言うものがあるのですか?」と言う問いにも全く答えられていません。検証を錦の御旗にされるのでしたら是非とも「本部御殿手は琉球王国時代から実在した流派である」と言う事と「上原清吉の技術は八光流の影響を全く受けていない」と言う仮説を「証明」して頂きたく思うのです。

ホルンさんの意見である「上原清吉の本部御殿手は八光流の影響を受けていない」と言う内容は「仮説」であるのに対して、私の「上原清吉は僅かな期間であるが八光流の教授を奥山龍峰から受けた」と言う内容は一応は「事実」です。また「上原清吉が自分から八光流を学んだ事があると言う事実を公にした事がない」と言うのも現状では事実と言えるでしょう。ただし「本部御殿手の内容と八光流の内容に何らかの因果関係がある」と言う事は私はそれほど主張していません。あくまで個人的な感想ですので単に「何らかの影響が多少は残った可能性があるかもしれない」と考えているだけです。

検証が出来ないからそれは真実であるとか嘘であると言うのは理論が飛躍しすぎているのではありませんか?

2009年11月30日(月)利用者:A——以上の署名の無いコメントは、219.188.176.32ノート/Whois)さんが 2009年11月30日 (月) 00:28 (UTC) に投稿したものです(三畔 2011年4月26日 (火) 12:15 (UTC)による付記)。[返信]

ご質問の件は、検証可能性独自研究は載せない、のページを御覧にならば書かれていますので、今一度御覧下さい。あと、「上原清吉の技術は八光流の影響を全く受けていない」と主張した事実はござません。あくまでも影響を受けたという主張の出典を尋ねただけです。それで、最初の質問にまだ答えていただけていませんが、
>その一方で僅かな期間に学んだ大東流や八光流の技術を参考にしたり取り入れる事によって新たな新興流派を立ち上げた者(日本少林寺拳法の宗道臣(中野理男)、神道天心流の上野貴、合気道の植芝盛平など)も多く存在するが、その多くは大東流や八光流を学んだ事実を隠匿する傾向が強い。
というのは、結局出典がなく貴殿の個人的な推測という理解でよろしいのでしょうか。--ホルン 2009年11月30日 (月) 05:36 (UTC)[返信]

出典についてですが綿谷雪氏の「武芸流派辞典」「武芸流派大辞典」姉川勝義氏の「実戦武術物語」松田隆智氏の「秘伝日本柔術」あたりでいかがでしょうか?(松田氏の著書と武芸流派辞典は今、手元に無いので間違いがあるかもしれません)

合気道関係では長年に渡って合気会及び植芝家が大東流の影響や関係を頑なに否定したり、写真に著書に掲載した写真の中から大東流の文字を消した事などは有名な話です。この20年ほどのスタンレー・プラニン氏の発行していた合気ニュースに詳しいです。

私はホルンさんの求めに応えたので次はホルンさんが「古伝の琉球唐手や本部御殿手の古文書に基づく記述と言うものがあるのか?」と「上原清吉が八光流の師範名簿に載ってはいるが、それは勝手に八光流側に掲載されて利用されたものである」と言われている出典の提示をお願いいたします。

2009年11月30日(月)利用者:A----以上の署名のないコメントは、219.188.176.32会話/Whois)さんが 2009年11月30日 (月) 07:31 (UTC) に投稿したものです。[返信]

それらの文献の中にどのように書かれているのでしょうか。具体的な文章の引用もお願いします。それと琉球王国時代の武術については大正時代以降、口碑がまとめられ出版されています。本部御殿手の歴史も上原清吉が著書で書いています。それが本当かどうか私には分かりませんし、また検証可能性というのは記述の出典が求められるということで、その出典の真偽を判断する必要はありません。要するに、「この文献にはこう書かれていた。しかし、それが本当かどうかを判断するのは研究者がすることでWikipediaの執筆者はそれをする必要はない」ということです。もしそれをすれば独自研究になりますから。それと、「勝手に八光流側に掲載されて」と書いた覚えはありませんが、貴殿が見たという内部資料に架空の道場写真が掲載されているのならその可能性はありえますね。ところで、まだその内部資料の名称や出版年は分かりますか? それとも全くの勘違いだったのでしょうか。--ホルン 2009年12月3日 (木) 00:17 (UTC)[返信]