ノート:ゲーム理論

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フォン・ノイマン=モルゲンシュテルン以前のゲーム理論について[編集]

記載内容が経済学の視点に寄り過ぎているように見えます。例えば以下のような記載がありますが、ボレル以前にもゲーム理論の体系はあったにも関わらず、その20年以上後のノイマンの論文をもって、ゲーム理論の誕生、などと表現するのは経済学におけるゲーム理論を学んだ人位だと思います。

数学者ジョン・フォン・ノイマンと経済学者オスカー・モルゲンシュテルンの共著書『ゲームの理論と経済行動』(1944年) によって誕生した。

せめて、~によって広く知られるようになった、等に修正すべきかと思います。--222.10.5.254 2017年2月14日 (火) 14:34 (UTC)[返信]

そのような学説を支持する専門家はおられるのでしたら、出典を教えて頂きたいです。私が挙げた出典の中には、経済学以外の畑の出身の専門家による著書や工学系のシリーズも含まれていたはずです。以前、あなたのようにゲーム理論は1928年以前から存在したと主張する方がいて編集合戦が起きた記録があるので調べてみましたが、ボレル以前の研究を以て「ゲーム理論の誕生」としている専門家は見当たりませんでした。ここがウィキペディアである以上、匿名の素人の心象ではなく、信頼できる情報源として出典を明記する必要があるのです。
もしも出典もないのに「~によって広く知られるようになった」などという記述に変えるべきと主張するのであれば、「ゲーム理論」の記事よりも先にウィキペディアの公式な方針ガイドラインを変更してください。具体的には、WP:CITEWP:VWP:NORなどです。--ミクロ経済学会話2017年2月16日 (木) 04:35 (UTC)[返信]
 追記 222.10.5.254氏のコメントを改めて読んでいて「ボレル以前にもゲーム理論の体系はあった」という部分に驚きました。
「研究史」の前史の節も詳し目に解説しましたが、確かに1944年の『ゲームの理論と経済行動』出版以前にも「ゲームに関する研究」は古今東西でなされていました。それを「ゲーム理論」と呼ぶのであれば、確かに「ボレル以前にもゲーム理論はあった」と言えなくもないです(そのようなことを主張する専門書を見たことがありませんが)。しかし、222.10.5.254氏の「ボレル以前にもゲーム理論の体系はあった」と仰ているのです。TGEB以前に「体系」と呼べるようなゲーム理論の研究があったなどとは聞いたこともありません。個人的に興味がありますので、独自研究でも構わないので詳しく教えて頂けないでしょうか?--ミクロ経済学会話2017年2月16日 (木) 04:56 (UTC)[返信]
 追記 222.10.5.254氏のコメントでもう一つ気になった点は「経済学におけるゲーム理論を学んだ人位だと思います。」という部分です。では、222.10.5.254氏の考える「経済学以外のゲーム理論を学んだ人」というのは具体的に誰を指しているのでしょうか?
私の調べたところでは、例えば、生物学畑出身で心理学者・社会学者の大浦宏邦氏や電子工学畑出身で計算機工学者の横尾真氏も自身の著書の中で「ゲーム理論はフォン・ノイマンとモルゲンシュテルンの著書によって誕生した」としており、「経済学畑出身かどうか」と「ゲーム理論の誕生をいつとみなすか」は無関係に思えます。それどころか、そもそも経済学者以外のゲーム理論家が「ゲーム理論はノイマンモルゲンシュテルン以前から体系があり研究されていた」などと発言されている所すら見たことがありません。この点についても教えて頂きたいです。
ごちゃごちゃしてしまったので、222.10.5.254氏に返答して頂きたい質問をまとめておきます。
(1)「ボレル以前にもゲーム理論の体系はあった」と222.10.5.254氏は仰るが、「体系」として具体的にどの研究のことを指しているのか?
(2)上で挙げた研究を「ゲーム理論の体系」とみなしている専門家はいるのか?ウィキペディアの三大方針に則った「信頼できる情報源」としての出典を明記してください。
(3) 222.10.5.254氏は「経済学におけるゲーム理論を学んだ人位だと思います。」という表現を用いておられるが、「経済学以外におけるゲーム理論を学んだ人」というのは具体的に誰を指しているのか?
以上です。--ミクロ経済学会話2017年2月16日 (木) 05:34 (UTC)[返信]
222.10.5.254氏から返答を頂けないようですのでとりあえず締めます。後でご覧になった方が目次等から見ても分かりやすいように節の名前を「記載の観点に関して」から「フォン・ノイマン=モルゲンシュテルン以前のゲーム理論について」に具体化しておきました。--ミクロ経済学会話2017年2月25日 (土) 10:41 (UTC)[返信]

コメント深く関わるつもりもありませんが、過去にこのページを編集したこともあるので一応コメント。ノイマンのゲーム理論に関する仕事は、ボレルの論文で定式化されていた可測集合(今は削除されているが過去のこのページでは「コンパクト凸集合」と表現されていた:厳密には間違いで微分ゲームとかではこの違いが重要だがここでは気にしない)への連続写像と不動点の導出なのだから、ノイマンの仕事をゲーム理論の誕生と表現するとなんとなく引っかかりを感じますね。--Hotaruike会話) 2017年3月12日 (日) 13:27 (UTC) コメント追記:ちなみにボレルこそゲーム理論の創始者であるという主張は、有名どころだとモーリス・ルネ・フレシェ等がおり、そんなに珍しくもない気がします。参考書籍参考書籍--Hotaruike会話2017年3月12日 (日) 13:53 (UTC)[返信]

返信 Hotaruikeさん、情報ありがとうございます!数学史や経済学説史の文献でライプニッツ、ベルヌーイ、クールノー、ボレル、ツェルメロ辺りを片っ端から調べても有力な情報が見つからなくて諦めかけていたので、具体的な文献のご紹介は本当に助かります。ご紹介して頂いた中山(2005)やFréchet (1953)が引用しているBorel (1938) が1928年以降に出版されていることや中山さん自身がボレルをまるで重要視していなかったことなどからBorel (1938) はノータッチでしたが、Borel (1938)をゲーム理論の起源とみなす学説があるというのは初耳です!ぜひ近日中に図書館でチェックしたいと思います。--ミクロ経済学会話2017年3月12日 (日) 17:27 (UTC)[返信]
報告 確認してみましたが、残念ながら中山(2005)やFréchet (1953)には「ボレル起源説」は一切書かれていませんでした。調べる中で数学者や生物学者、あるいは「ノイマンらが創った体系」に批判的な専門家でさえも、「ノイマン(とモルゲンシュテルン)がゲーム理論の創始者」という見解を示している例が数件見つかったので、その一部を記事本文に加筆しておきました。どうやら専門家にとっては「ゲーム理論前史」におけるボレルの業績はクールノー(19世紀前半の数理経済学者)と同程度かそれ以下のようです。--ミクロ経済学会話2017年5月15日 (月) 10:58 (UTC)[返信]

今更な話題ですが、ブリタニカ百科事典にはボレスがゲーム理論を構築した第一の人物であることがかかれています[1]。--222.10.7.4 2018年3月4日 (日) 12:42 (UTC)[返信]

He completed a series of papers on game theory (1921–27) and became the first to define games of strategy.
(翻訳)彼は1921年から1927年にゲーム理論に関する一連の論文を仕上げ、戦略的なゲームを定式化した最初の人物となった。

「ゲーム理論と異端派の立場が大きく異なる」とは?[編集]

Iconocrasistasさんの2017年7月9日 (日) の編集によって「異端の思想としてのゲーム理論」の節が丸ごと削除されました。「いわゆる"異端派"(ジョーン・ロビンソンなど)とゲーム理論の立場は大きく異なるので。」とのことですが、神取 (1994)の構成に則った部分を削除する理由になっているとは到底思えません。 また、「ゲーム理論はかつて異端の思想であった」という内容は、鈴木光男さんが随所で強調している所であり、ゲーム理論の歴史や意義を論じる上で避けるべきではないと思うのですが、Iconocrasistasさんが件の節を掲載すべきでないと考える理由は何ですか?--ミクロ経済学会話2017年7月10日 (月) 08:28 (UTC)[返信]

返信 削除した部分について最初の数段落に関しては特に異論はないのです。シェリングの回想のあたりまでですね。しかしその後"異端派"の主張とゲーム理論を比較対照するところまで来ますと、一体この節がゲーム理論を理解する為に必要だろうかという疑問を持ちました。第一にこの節の目的がよく分かりませんでした。ゲーム理論はいわゆる"新古典派"よりも異端派に近いと主張したいのでしょうか? それともゲーム理論を異端派からの批判に対する主流派側からの応答として描こうとするのでしょうか? 前者だとすれば(そうではないと思いますが)、ミクロ経済学の名の下に新古典派流の一般均衡理論とゲーム理論が共存して教えられている現状を説明できませんし、クールノーの極限定理などの結果をどう考えるのでしょう。ゲーム理論が取り入れられて経済学が変化したのだという主張はその通りで理解できますが、論旨が曖昧に過ぎるように思います。

細かい点についても混乱が見受けられます。まず第一の点、現実主義対道具主義の対照ですが、異端派のいう現実主義は理論が現実を正確に描写するだけでなく、仮定も現実に合ってなければならないという主張だったと思います。ゲーム理論はどちらの点についても彼(女)らの言う現実主義とは合致しないのではないでしょうか。特に後者の点でですね。ちなみに異端派流現実主義と科学哲学で言う科学的実在論を結びつけていますが、ジョーン・ロビンソンなどがこうした批判を始めた時に科学哲学の議論を意識していたようには思えません。また新古典派をおしなべて道具主義に立っているとみなすのも問題です。確かにフリードマンの有名な論考は道具主義に基づいていましたが、それに対するサミュエルソンの批判とマハループの反批判といった議論がありました。私はこの議論に詳しいわけではありませんので、他の方が登場されることを期待します。

第二に合理性に関して、現在でも最低限の合理性、つまり何らかの選好関係があってそれを最大化しているとみなすが選好関係が完備であるとか整合的であるとかは特に問わないという意味での合理性をベースにして理論は成り立っているのではないでしょうか。確かに完全合理性を緩めてきたというのはその通りですし、歴史的にみてもゲーム理論の方が完全合理性から早く逸脱したのも事実でしょう。しかし一般均衡理論の方でも完全合理性を緩めてモデルを拡張してきたわけです。マスコレルなどもその系統で論文を書いていました。いわゆる限定合理性についてですが、この概念の最大の問題は長らく操作可能な定義を欠いていたことです。この問題を解決したのはルービンシュタインなどのゲーム理論家でしたが、結局その解決策は最低限の合理性と整合的なものと言って良いでしょう。このように考えると合理性についてはゲーム理論は古き新古典派と共通の地盤にあり、ポスト・ケインジアンなど狭義の異端派とは異なると考える方がすっきりします。 第三の方法論的個人主義についてですが、これはやや哲学的で難しい問題ではあります。プレイヤーがある程度社会や制度というものから自律的で、インセンティヴに従って選択を行なっていると想定しているわけですから、普通に考えれば方法論的個人主義に立っていて社会有機体説みたいなものからは程遠いという結論になると思います。ただ鈴木光男氏が著書でそのような主張をしているのは本当でしょうし、この辺りはゲーム理論に固有な立場があるというわけではないと考えるのが穏当のような気がします。ちなみに新古典派の一般均衡理論が個人間の相互依存を排除しているというのはこれも戯画化されたイメージだと思います。一般均衡理論というのは価格というシグナルに他のすべての個人の情報が集約される市場を扱うというその意味では特殊な理論ですから、価格を通じて人々の相互作用を見ているのだと言って良いでしょう。

第四の論点も何だかよく分からないのですが、いうほど"新古典派"は政府の介入を排除していたのでしょうか。市場の失敗ということは古くから認識されてきましたし、失敗がある場合には政府の介入が厚生を改善する可能性があるということも広く認められていたように思います。一方では本当に介入が改善的かどうかは政治過程の分析をしてみなければ分からないので、ゲーム理論を使って政治を分析してみようというのがPolitical Economyで活躍している経済学者の立場だと思います。何れにしても政府の介入を認めるかどうかで主流派と異端派を分けるという論点自体が私には理解できません。

第五の点について、ゲーム理論が市場を通じた交換と生産とを同じフレームワークで分析できるのであれば、ことさら生産と富を強調する異端派の主張を取り上げる必要はないでしょう。 以上長くなって恐縮ですが、削除した理由を書き連ねました。何の発言もなくいきなり削除するというのはマナーに反するところがあったと思いますが、一方で議論を活発にする刺激にもなると考えたわけです。様々な方が参加してこのページがより良いものになればと思っております。--Iconocrasistas会話2017年7月12日 (水) 04:53 (UTC)[返信]

 追記長々と書きましたが、ゲーム理論を草創期から研究していた人達が異端派を自認していたのは間違いありませんし、周りの経済学者から冷たく見られていたのも事実のようです。どこかでモルゲンシュテルンのプリンストンの経済学部での扱いは散々だったという話を聞いた気がします(要出典ですね)。ただ異端派と言ったってみんながみんなロビンソン流の異端派にならなくとも良いわけでして、事実この2つの"異端派"は上で書いた通り随分異なるわけです。ゲーム理論を取り入れて現代の(主流派)経済学が誕生し、ミクロ経済学の名の下に一般均衡理論とゲーム理論が共存しているのも理由があってのことで、草創期の研究者の主観は別としてやはり共通の地盤があるんだと思った方が理解が進むのではないでしょうか。ましてロビンソン流の異端派への言及は混乱の元になりこそすれ、ゲーム理論の理解には役立たないと思います。--Iconocrasistas会話2017年7月12日 (水) 06:21 (UTC)[返信]
返信 本文中で引用していたラヴォアのテキストで「異端派」と呼ばれているものは、「反・新古典派」の総称に過ぎず、ロビンソンが「異端の経済学」と呼んだものとは異なりますよ。鈴木さんや神取さんの文献ではゲーム理論を「新古典派」と対照的に紹介していたため、私は本文中でそのこと(反新古典派=異端派としてのゲーム理論の意義)を書きました。しかし、「そもそも新古典派ってなんだ?」という質問を何件も頂いたので、「新古典派および反・新古典派の特徴を紹介した文献」としてラヴォアを引用したのです。決して「ゲーム理論はロビンソンの言う『異端の経済学』だ」等と主張したつもりも、主張する気もありません。ラヴォア自身が指摘している通り「異端派」という学派が存在して何かを主張している訳ではなく、新古典派以外の志向を持つ経済学を総称して「異端派」と呼んでいるだけのようです、そして、代表的な、なおかつ信頼に値する出典である鈴木や神取に合理性や「主たる対象が市場か否か」、政府介入の是非といった論点があった訳です。これらは偶然ではなく、新古典派と非新古典派の対比から必然的に言及された論点なのでしょう。--ミクロ経済学会話2017年7月19日 (水) 12:22 (UTC)[返信]
 追記第4、第5の論点について説明するのを忘れていましたので追記。「いうほど"新古典派"は政府の介入を排除していたのでしょうか。」や「第五の点について、ゲーム理論が市場を通じた交換と生産とを同じフレームワークで分析できるのであれば、ことさら生産と富を強調する異端派の主張を取り上げる必要はないでしょう。」については、引用元の神取さんの論文をご覧ください、としか言いようがありません。ここがウィキペディアである以上、出典のある記述に対して「それは違うと思うなぁ」と仰られてもこちらはどうしようもありません。もちろん、神取さんの論文が信頼できる情報源ではないと仰るのであれば、話は別ですが。--ミクロ経済学会話2017年7月19日 (水) 12:29 (UTC)[返信]
返信 だいぶ細かい点にこだわってしまい趣旨が分かりにくくなってしまったようです。ゲーム理論が伝統的な理論とどう異なり、何が新しかったのかを述べることは重要だと思っています。この目的に沿って個別の記述を評価する必要があるでしょう。さて第一に最初に述べた目的に照らして「新古典派及び反・新古典派の特徴を」まとめる上でラヴォワは信頼できる情報源でしょうか? 私はそうは思いません。ラヴォワのテキストではゲーム理論について詳しく言及されていたでしょうか。ゲーム理論を反・新古典派に引き入れる試みはしていたかもしれませんが、意味のある説明があるようには見えません。ラヴォワの新古典派理解は適切でしょうか。この人のキャリアから見ても新古典派の理論に通じた研究者と考えるのは無理がありそうです。何故数多あるミクロ経済学やゲーム理論のテキストではなくラヴォワのテキストを下敷きにする必要があるのでしょうか。第二にミクロ経済学さんもお認めになると思いますが、異なる様々な反・新古典派をひとまとめにして新古典派と対比するのは不毛ではないでしょうか。ラヴォワが「異端派」という学説が存在して何か主張しているわけではなく、異端派というのは反・新古典派の総称に過ぎないと言うのならばなおさらでしょう。しかも結局ラヴォアは反・新古典派の共通の性質を抽出して論じているわけですが、反・新古典派の多様性を考えると無理な試みと言わざるを得ません。ゲーム理論には伝統的な新古典派ともその他の反・新古典派とも異なる視角があるわけですから、それをまとめるのが無理に反・新古典派として一般化するよりも最初に述べた目的に照らして有益でしょう。つまり新古典派-異端派のマトリックスとその説明は特に必要のない冗長な記述か悪くすれば混乱をもたらすという意味で記事の整合性を損ねる記述になってしまう恐れがあります。個人的にはこの部分を全て削ってもゲーム理論の新規性や伝統的理論との違いは十分理解できるように書かれていると思いますが。ところで神取さんの論文が信頼できる情報源であるのは間違いありませんが、少数の文献にだけ頼って論を展開するのはウィキペディアの性質上まずいのではないでしょうか。特にゲーム理論の歴史、もっと一般には経済理論の歴史については大枠ではコンセンサスがあっても細かい点については神取さんの見方が多くの人に共有されていないということはあり得ます。もう少し別の文献に目を向けてみるのもいいのではないかと思います。その点でMyerson(JEL 1999)なら記述も平易ですし信頼できる情報源として申し分ないでしょう。マイヤーソンは合理性、合理的選択を媒介にして伝統的理論とゲーム理論による分析を同一線上に捉えているように見受けられます。--Iconocrasistas会話2017年7月19日 (水) 19:55 (UTC)[返信]
 追記 ちなみに少し衒学的な話題に踏み込むと、ラヴォワの新古典派の特徴づけはロビンソンをはじめとするポスト・ケインジアンの新古典派批判と重なりますし、異端派の特徴づけはポスト・ケインジアンの世界観/彼(女)らの目指すところと全く同一でないにしてもかなり近いように思います。結局のところラヴォワの異端派とロビンソンの異端の経済学との間に有意な違いがあるかどうか疑問です。--Iconocrasistas会話2017年7月19日 (水) 20:05 (UTC)[返信]