テレンティー・デリバス

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テレンティー・デリバス
NKVD極東司令官
任期
1934年7月10日 – 1937年7月31日
後任者フセヴォロド・バリツキー
個人情報
生誕テレンティー・ドミトリエヴィチ・デリバス
Терентий Дмитриевич Дерибас

1883年
ロシア帝国の旗 ロシア帝国ヘルソン県ウスペンスコエ
死没1938年7月28日(1938-07-28) (aged 55)
国籍ソビエト連邦の旗 ソビエト連邦
政党RSDLP(ボリシェヴィキ) (1904年 – 1918年)
ロシア共産党 (1918年 – 1937年)

テレンティー・ドミトリエヴィチ・デリバス(ロシア語: Терентий Дмитриевич Дерибас, ラテン文字転写: Terenty Dmitrievich Deribas1883年3月28日1938年7月28日)は、ロシア革命家チェキスト、およびNKVDの一級国家保安委員。

デリバスはヘルソン県ウスペンスコエの村に生まれた。[1]1904年にボリシェヴィキに入党する。

1918年11月、チェーカーおよび赤軍に入隊し、数師団の政治将校となる。彼はクロンシュタットタンボフといった場所での反革命反乱鎮圧の任を担った。

1929年、OGPUの代表として極東へと派遣され、大規模な抑圧を行なった。1931年にはNKVDの一員となる。

大粛清が巻き起こる最中、デリバスはトロツキストであるとの告発を受け1937年7月31日に解任される。1937年8月12日には逮捕され、1938年7月28日に死刑判決を受けた。同日、コムナルカ射撃場にて銃殺された。

死後の1957年12月31日に名誉回復された。

参照[編集]

  1. ^ Жертвы политического террора в СССР”. Lists.memo.ru. 2013年6月12日閲覧。