スティーブン・ブラッドバリー

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獲得メダル
オーストラリアの旗 オーストラリア
男子 ショートトラック
オリンピック
1994 リレハンメル 男子 5000mリレー
2002 ソルトレイクシティ 男子 1000m
世界ショートトラックスピードスケート選手権大会
1991 シドニー 男子 5000mリレー
1993 北京 男子 5000mリレー
1994 ギルドフォード 男子 5000mリレー

スティーブン・ブラッドバリーSteven Bradbury , 1973年10月14日 - )は、オーストラリアニューサウスウェールズ州シドニー市カムデン出身の男子スピードスケートショートトラック)選手。2002年に開催されたソルトレイクシティオリンピックの男子・ショートトラックスピードスケート1000mにおいて、誰もが思いもよらなかった結末で優勝を果たし、金メダルを獲得したことで有名である。

経歴[編集]

ソルトレークシティ五輪まで[編集]

1991年にシドニーで行われた世界ショートトラックスピードスケート選手権大会の5000mリレーで金メダルを獲得した。これはオーストラリアがウィンタースポーツ世界選手権で獲得した初めての金メダルであった。世界チャンピオンとなったオーストラリアチームは1992年のアルベールビルオリンピックに出場したが準決勝で敗れた。彼はチームの補欠選手であり個人種目にも出場は果たせなかった。

1994年リレハンメルオリンピックで、ショートトラック男子5000mリレーオーストラリア代表の一員として出場、準決勝では2位となり決勝に進出、決勝で3位となり銅メダルを獲得、オーストラリア初の冬季オリンピック・メダリストとなった。個人500mでは準決勝で敗れ、5〜8位決定戦で4位となり8位。1000mでは他の選手からの妨害を受け24位に終わった。

1998年長野オリンピックでもリレーに出場したが8位、個人500m、1000mではそれぞれ19位、21位に終わった。

2002年ソルトレイクシティオリンピックで彼はショートトラック1000mに出場し、金メダルを獲得。この勝利によって、オーストラリアのみならず、南半球の国に初めての冬季オリンピックでの金メダルをもたらした。

金メダル獲得までの経緯[編集]

1回戦は、幸運にも同じ組の対戦相手にブラッドバリーよりも飛び抜けて速い選手がいなかったため接戦となり、ブラッドバリーが混戦を制して1位でゴール。準々決勝に進出した。

準々決勝はアポロ・アントン・オーノなど優勝候補らと同じ組となった。ブラッドバリーは実力差からかレース中盤から最下位(4位)に後退し追走する状況となったが、最終コーナー直前、田村直也マーク・ガニヨンが接触し、田村がコーナーの外側に大きくコースアウトして壁にぶつかり転倒したため3位でゴール。準々決勝では上位2人しか準決勝に進出できないため、本来ならブラッドバリーはここで敗退するところであった。しかし、審判がガニヨンと田村の接触について、「ガニヨンが田村を妨害した」と判断し、2位でゴールしていたガニヨンが失格となった。そのため、繰り上がりでブラッドバリーが2位となり準決勝に進出した。後にブラッドバリーは「あの時(準々決勝で)は先行逃げ切りを図ったが、最後にバテてしまい他のみんなに置いてかれた」と語っている。

準決勝ではスタートから優勝候補たちの先頭集団に遅れをとり終始最下位(5位)で追走するレース展開になったが、残り半周付近で金東聖が転倒し、さらに最終コーナーを曲がり終える直前には李佳軍マシュー・ターコットがそれぞれ転倒。ゴール直前に計3人が転倒したことによりブラッドバリーは2位でゴールした。さらにその後の審議で、1位でゴールしていた寺尾悟が「ターコットを妨害して李も巻き込んで転倒させた」と判断され失格となったため、ブラッドバリーは結果1位となり決勝に進出した。

決勝では、準決勝よりも大きく先頭集団に遅れをとり、再度スタートからレースの終盤まで最下位(5位)で追走する状況となり、後にブラッドバリーは「決勝では体が痛く、到底あのようなペースにはついていけなかった」と語っていた。しかし、ゴール直前の最終コーナーで前を走っていた4人の選手(オーノ、安賢洙、李佳軍、ターコット)が互いに接触し合い全員転倒したため、ひとり後方にいて難を逃れたブラッドバリーが転倒した4人を抜き、1位でゴール。準々決勝以降、ブラッドバリーの前を走る選手がゴール直前で次々と転倒したり、あるいはブラッドバリーより先にゴールした選手が失格になったりするなど、幾多の偶然と幸運が重なったことにより、ブラッドバリーは衝撃の金メダルを掴み取ることとなったのであった。なお、転倒したオーノとターコットはいち早く体勢を立て直したものの、脇を悠然とすり抜けるブラッドバリーには追いつけず、スライディングで足からゴールして2位・3位に終わった[1]

金メダル獲得後[編集]

金メダルを獲得したあとのインタビューで彼は「僕が一番速い選手じゃなかったのは明らかだよ。1分半のレースを本当に勝ったって言うのに、メダルを貰えることがまだ信じられないんだ。メダルはこの10年間の『苦闘』に対して授与されるんじゃないかな」と語った。また、リップサービスとして「実は先頭集団のアクシデントを期待していた。そうしたら本当に思わぬ事が起こったんだ。作戦通りだったね」と語り取材陣の笑いを誘った。

「苦闘」には、2つの命の危険のあった事故を乗り越えてきたことを含んでいる。1つは1994年のモントリオールでのレースで、彼は転倒の際、他の選手のスケートの刃によって足を切ってしまった事で4リットルの血液を失い、111針を縫う怪我を負った[2]。もう1つは2000年9月にトレーニング中のアクシデントで首の骨を折り、以後6週間、ヘイロー装具(首を固定する医療機器)をつけて過ごすことになった出来事である。

南半球では初めてとなる冬季五輪金メダルを獲得したため、オーストラリアではその功績をたたえ、彼の切手が発行された。なお、金メダルを獲得するまでの経緯が上記のような勝ち上がり方だっため、オーストラリアの俗語(vernacular)辞典には、「漁夫の利を得る」「棚ぼたの勝利」「意図しなかったり普通では考えられない成功をなす」という意味で「ブラッドバリー("doing a Bradbury")」という言葉が掲載されているという[3]。また、日本の『勇者のスタジアム』や『ザ・ベストハウス123』という番組にも取り上げられ、オリンピック史上最高のラッキーボーイとして特集された。その際にインタビューにも答えており、メダリストとなったことで何が変わったかという質問には「とても有名になった」と答えていた。

その後彼は競技からの引退を表明し、2006年トリノオリンピックには出場しなかったが、オーストラリアのチームリーダー、テレビ解説者として参加した。

現在は既婚者であり、現役時から勤務しているスケート靴製造会社の業務に専念しているほか、地元の消防団員としても活躍している。

その他[編集]

上記決勝戦はその結果の意外さから、NHKテレビ番組ピタゴラスイッチ』のコーナー「○と△のしゅうだん」でもその全経過が放送されたことがある。

自伝[編集]

  • "Steven Bradbury: Last Man Standing" by Gary Smart and Steven Bradbury: ISBN 0975728784, 2005.

脚注[編集]

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  1. ^ [1]ブラッドバリーの五輪における結果
  2. ^ Rivals' bad luck or missteps prove golden for Aussie
  3. ^ Radio National

外部リンク[編集]