シャーイスタ・ハーン

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シャーイスタ・ハーン

シャーイスタ・ハーン(Shaista Khan, 生年不詳 - 1694年)は、北インドムガル帝国デカン総督及びベンガル太守。第5代皇帝シャー・ジャハーンの妃ムムターズ・マハルの兄弟、第6代皇帝アウラングゼーブの叔父にあたる[1]

生涯[編集]

晩年のシャーイスタ・ハーン

生年不明ながら、ムガル帝国の貴族アーサフ・ハーンの息子として生まれた。姉妹にはムムターズ・マハルがいる。

1660年、シャーイスタ・ハーンは皇帝アウラングゼーブによりデカン総督に任命され[2]アウランガーバードに到着したのち、マラーターの討伐にあたった。

1663年、シャーイスタ・ハーンはプネーバーラーマティーチャーカンなどのマラーターの拠点を占拠した[3]。だが、4月5日、シャーイスタ・ハーンはシヴァージーにプネーの軍営を襲撃され、この戦いで指を切られた。その際、彼の息子が殺害された。

同年、ベンガル太守ミール・ジュムラーが死亡し、ベンガルが混乱したため、1664年からシャーイスタ・ハーンが後任の太守として赴任した[4]。以後、1688年までその地位にあった[4]

1666年、シャーイスタ・ハーンはアラカン王国からチッタゴンを奪還した[4]。その後、チッタゴンはアウラングゼーブの命により、イスラマーバードと改められた[4]。また、離反していたクーチ・ビハールに対しても攻撃を行い、支配下に置いた。

1673年、シャーイスタ・ハーンはフランス人フーグリー川岸に居留地を建設することを許した。これがシャンデルナゴルの建設に繋がった。

1688年、シャーイスタ・ハーンはベンガル太守を退任後、ダッカを離れ、帝都デリーで暮らした。

脚注[編集]

  1. ^ Samaren Roy (May 2005). Calcutta: Society and Change 1690–1990. iUniverse. pp. 52–. ISBN 978-0-595-34230-3. https://books.google.co.jp/books?id=y-W6TjM2n1AC&pg=PA52&redir_esc=y&hl=ja 2012年2月25日閲覧。 
  2. ^ 小谷『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』、p.213
  3. ^ 小谷『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』、p.
  4. ^ a b c d 堀口『世界歴史叢書 バングラデシュの歴史』、p.70

参考文献[編集]

  • 堀口松城『世界歴史叢書 バングラデシュの歴史』明石書店、2009年。 
  • 小谷汪之『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』山川出版社、2007年。 

関連項目[編集]