ゴドルフィン=マールバラ内閣

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ゴドルフィン=マールバラ内閣(英語: Godolphin–Marlborough ministry)は、イングランド王国及びグレートブリテン王国の内閣。アン女王統治下初の内閣であり、1702年5月に成立し、1710年に解体した。

概要[編集]

1702年にアン女王が即位すると、彼女は初代ゴドルフィン男爵シドニー・ゴドルフィンを大蔵卿に、初代マールバラ伯爵ジョン・チャーチル兵站部総監英語版に指名した。同年5月に内閣を組閣したが、この内閣はしばらくトーリー党ホイッグ党の連立政権として1708年まで続いた。1702年から1704年までは主にトーリー党が主導権を握っており(ゴドルフィン、マールバラともにトーリー党員)、南部担当国務大臣にはトーリー党急進派のノッティンガム伯爵チャールズ・ヘッジズ英語版が就いた。しかし内部の対立によりノッティンガム伯が辞任すると、ゴドルフィンとマールバラ公爵(1703年に公爵へ陞爵)はトーリー党穏健派のロバート・ハーレーを担ぎ出した。1706年にはスペイン継承戦争のためホイッグ党のチャールズ・スペンサー南部担当国務大臣に就任させたが、これをきっかけにジャントーが勢い付き、ウィリアム・クーパー英語版のようなジャントーの人物も政権の要職を得るようになった。1708年、女王やその周辺の不信感を買ったゴドルフィン伯爵(1706年に伯爵へ陞爵)とマールバラ公爵が辞意を表明したが、周囲の説得により撤回した。それをうけ批判の対象がハーレーに移ったため、同年彼は辞任した。その後、政権の中心はジャントーに移り、トーリーとホイッグの連立は事実上解消された。1710年にゴドルフィン=マールバラ内閣は解体され、アン女王の指名によりハーレー率いるトーリー党政権・ハーレー内閣が成立した。

閣僚[編集]

役職 名前 就任年月日
第一大蔵卿 マールバラ公 1702年5月8日
財務大臣 ヘンリー・ボイル 1701年3月29日
ジョン・スミス 1708年2月11日
枢密院議長 ペンブルック及びモンゴメリー伯 1702年7月9日
サマーズ卿 1708年11月25日
ランカスター公領大臣 サー・ジョン・ルーソン=ゴア英語版 1702年5月12日
ダービー伯 1706年6月1日
兵站部総監英語版 マールバラ公 1702年7月1日
南部担当国務大臣 ノッティンガム伯 1702年5月2日
チャールズ・ヘッジズ英語版 1704年5月18日
サンダーランド伯 1706年12月3日
ダートマス卿 1710年6月15日
北部担当国務大臣 チャールズ・ヘッジズ 1702年5月2日
ロバート・ハーレー 1704年5月18日
ヘンリー・ボイル 1708年2月13日
王璽尚書 ノーマンビー公 1702年4月27日
ニューカッスル=アポン=タイン公 1705年3月21日
通商長官 ウェイマス子爵英語版 1702年6月12日
スタンフォード伯 1707年4月25日
海軍卿英語版 ジョージ・オブ・デンマーク 1702年5月20日
アン女王 1708年10月28日
ペンブルック及びモンゴメリー伯 1708年11月29日
オーフォード伯 1709年11月8日
戦時大臣 ジョージ・クラーク 1692年3月3日
ボリングブルック子爵 1704年4月20日
ロバート・ウォルポール 1708年2月25日

参考文献[編集]

  • Chris Cook and John Stevenson, British Historical Facts 1688–1760, Macmillan 1988, p. 33–35
  • World Statesmen

関連項目[編集]

先代
ペンブルック内閣
イングランド王国の内閣英語版
1702年 - 1707年
次代
合同法
先代
合同法
イギリスの内閣
1707年 - 1710年
次代
ハーレー内閣