ケネス・マーチソン

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ケネス・マーチソン

ケネス・マーチソン英語: Kenneth Murchison1794年1854年8月1日)は、イギリスの植民地総督。ペナン駐在参事官英語版シンガポール駐在参事官英語版海峡植民地総督英語版を歴任した[1]

生涯[編集]

ケネス・マーチソン(Kenneth Murchison、1751年 – 1796年、アレグザンダー・マーチソンの息子)と妻バーバラ(Barbara、旧姓マッケンジー(Mackenzie)、1836年9月9日没、ロデリック・マッケンジーの娘)の三男として[2]、1794年にスコットランドで生まれた[1]。長兄ロデリック地質学者準男爵に叙され、次兄アレグザンダーは早世した[2]。父ケネスはイギリス東インド会社の医師として1769年から1786年までインドに駐在して財をなした後、帰国して領地を購入、1791年に結婚した[3]。しかし、ケネスが生まれた後は父の健康が悪化して、1796年にバースで死去した[3]。母はロデリックとケネスとともにエディンバラに引っ越し、のちに夫の友人と再婚した[3]

マーチソンは父と同じくイギリス東インド会社に入社して、1827年11月29日にペナン駐在参事官英語版およびシンガポール駐在参事官英語版に任命された[1]。1828年5月に裁判官のジョン・トマス・クラリッジ英語版がシンガポールに向かうことを拒否したため、一時裁判官を兼任したことがあった[1]

兄ロデリックが1831年から1832年までロンドン地質学会会長を務めており、マーチソンは兄の説得を受けてペナン地質調査を依頼、兄が調査結果を地質学会の会誌で発表した[4]

1833年12月7日に海峡植民地総督英語版に任命されたが、同日より休暇をとって仕事を副官のジョージ・ボナム英語版に任せた[1]。以降3年間ほとんどの時間をケープ植民地で過ごし、1836年11月17日に総督を退任した[1]

1854年8月1日に死去した[2]

家族[編集]

1816年にシャーロット・プライス(Charlotte Pryce、1816年没)と結婚、1女をもうけた[2]

  • シャーロット - 1854年8月21日、W・コックス(W. Cox)と結婚、1男ケネスをもうけた[2]

1826年5月27日、アン・ネシャム(Anne Nesham、1846年2月21日没、ジョン・ドウスウェイト・ネシャムの娘)と再婚して、2男をもうけた[2]

  • ケネス・ロバート[2]
  • ロデリック[2]

出典[編集]

  1. ^ a b c d e f Corfield, Justin (2 December 2010). Historical Dictionary of Singapore (英語). p. 180. ISBN 9780810873872
  2. ^ a b c d e f g h Burke, Sir Bernard, ed. (1868). A Genealogical and Heraldic Dictionary of the Peerage and Baronetage of the British Empire (英語) (30th ed.). London: Harrison. p. 794.
  3. ^ a b c Bonney, Thomas George; Stafford, Robert A. (21 May 2009) [23 September 2004]. "Murchison, Sir Roderick Impey, baronet". Oxford Dictionary of National Biography (英語) (online ed.). Oxford University Press. doi:10.1093/ref:odnb/19555 (要購読、またはイギリス公立図書館への会員加入。)
  4. ^ Stafford, Robert A. (2002) [1989]. Scientist of Empire: Sir Roderick Murchison, Scientific Exploration and Victorian Imperialism (英語). Cambridge University Press. p. 111. ISBN 0-521-33537-X
官職
先代
ジョン・プリンス
ペナン駐在参事官英語版
1827年 – 1833年
次代
ジョージ・ボナム英語版
先代
ロバート・イベットソン英語版
海峡植民地総督英語版
1833年 – 1836年