アンリ3世 (バル伯)

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アンリ3世
Henri III
バル伯
アンリ3世のシール
在位 1291年 - 1302年

出生 1259年
死去 1302年9月
ナポリ王国の旗 ナポリ王国ナポリ
配偶者 エリナー・オブ・イングランド
子女 エドゥアール1世
ジャンヌ
エレオノール
家名 スカルポン家
父親 バル伯ティボー2世
母親 ジャンヌ・ド・トゥシー
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アンリ3世フランス語:Henri III, 1259年 - 1302年9月)は、バル伯(在位:1291年 - 1302年)。バル伯ティボー2世とジャンヌ・ド・トゥシーの息子[1]

生涯[編集]

アンリ3世は父ティボー2世とメッツ司教が対立した時に騎士となり、その後ロレーヌ公フェリー3世に仕えた。父が死去した時、アンリ3世は十字軍に参加する準備をしていた。

1284年、シャンパーニュ女伯でナバラ女王のフアナ1世フランス王フィリップ4世と結婚した。これに対し、アンリ3世はイングランド王エドワード1世の娘エリナーと結婚し[2]、フランスとイングランドの間で争いが勃発したとき、アンリ3世はこれに巻き込まれた。この争いはブルージュ条約により終結した。その条約の条件に基づき、アンリ3世はいくつかの要塞を放棄し、バロワ・ムーバンと呼ばれるバル伯領の一部についてフィリップ4世に対し臣下の礼を取った。アンリ3世はまた、キプロスにおいてムスリム軍と戦うことを約束した。

このため、アンリ3世はナポリ王国に向かった。シチリア王フェデリーコ2世との戦いにおいてナポリ王カルロ2世を支援した時に、アンリ3世は負傷しその後まもなくして死去した。

家族[編集]

1293年9月20日にブリストルにおいてイングランド王エドワード1世エリナー・オブ・カスティルの娘エリナーと結婚し[3]、以下の子女をもうけた。

脚注[編集]

  1. ^ Bubenicek 2002, p. 86.
  2. ^ Florentii Wigornensis Monachi Chronicon, Continuatio, p. 268
  3. ^ Prestwich 1997, p. 398.
  4. ^ Vale 2001, p. 211.
  5. ^ Ward 2013, p. 23.

参考文献[編集]

  • Bubenicek, Michelle (2002) (French). Quand les femmes gouvernent: droit et politique au XIVe siècle. Ecole de Chartes 
  • Prestwich, Michael (1997). Edward I. Yale University Press 
  • Vale, Malcolm (2001). The Princely Court: Medieval Courts and Culture in North-West Europe, 1270–1380. Oxford University Press 
  • Ward, Jennifer (2013). English Noblewomen in the Later Middle Ages. Routledge 
先代
ティボー2世
バル伯
1291年 - 1302年
次代
エドゥアール1世