「英子セオドラ尾崎」の版間の差分

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== 来歴 ==
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父親は[[男爵]][[尾崎三良]]で、三良がロンドン留学中に語学教師を務めたウイリアム・モリソンの娘バサイアと結婚し、生まれた娘のひとりである。両親は5年間の結婚の後に離婚して、三良は妻子を置いて帰国し、セオドラは16歳までイギリスで育てられた。離婚同意書に母バサイアが子供の養育に困った際は子供を日本に送ることができるという条項があったことから、1885年に祖父のウィリアム死去により生活に困窮したバサイアは英子の日本行きをロンドン総領事の[[園田孝吉]]に相談、もともと引き取ることに賛成だった尾崎はすぐ了承し旅費を送った<ref name=nagaoka>[https://www.jstage.jst.go.jp/article/jeigakushi1969/1996/28/1996_28_57/_pdf 尾崎行雄夫人セオドーラの半生]長岡祥三、日本英学史学会『英学史研究』1996 (1995) No. 28 </ref>。
父親は[[男爵]][[尾崎三良]]で、三良がロンドン留学中に語学教師を務めたウイリアム・モリソンの娘バサイアと結婚し、生まれた娘のひとりである。両親は5年間の結婚の後に離婚して、三良は妻子を置いて帰国し、セオドラは16歳までイギリスで育てられた。離婚同意書に母バサイアが子供の養育に困った際は子供を日本に送ることができるという条項があったことから、1885年に祖父のウィリアム死去により生活に困窮したバサイアは英子の日本行きをロンドン総領事の[[園田孝吉]]に相談、もともと引き取ることに賛成だった尾崎はすぐ了承し旅費を送った<ref name=nagaoka>長岡祥三, [https://doi.org/10.5024/jeigakushi.1996.57 尾崎行雄夫人セオドーラの半生]『英学史研究』 1995 1996巻 2 号 p.57-71, 日本英学史学会, {{doi|10.5024/jeigakushi.1996.57}}, {{naid|130003624910}}</ref>。


バサイアは英子を手放すことをためらったが、尾崎の再三の催促により、1887年に16歳で来日し、[[頌栄女子学院中学校・高等学校|頌栄女学校]]のアメリカ人女性宣教師や式部権頭の[[桜井能監]]に半年ほど預けられたのち、[[聖アンデレ教会]]の[[アレクサンダー・クロフト・ショー|ショウ牧師]]夫妻に引き取られ、[[香蘭女学校]]の助教師となった<ref name=nagaoka/>。18歳から縁談が4回持ち込まれたが、いずれも拒否<ref name=nagaoka/>。20歳で父親から独立して教師で身を立て、1891年に駐日英国公使の[[ヒュー・フレイザー (外交官)|ヒュー・フレイザー]]夫人の個人秘書となり英国大使館に住み込んだ<ref name=nagaoka/>。フレイザー公使の急死によりイタリアに転居した夫人を追って1895年に渡欧し、2年間夫人とともにイタリアに滞在したのち、ロンドンの母のもとに戻った<ref name=nagaoka/>。
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== 関連項目 ==
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== 外部リンク ==
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* [http://durendal.org/jft/ Original scans of Japanese Fairy Tales]
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* [https://archive.org/search.php?query=creator%3A%22Ozaki%2C+Yei+Theodora%22  Yei Theodora Ozaki著作集]
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2020年8月31日 (月) 06:40時点における版

英子 セオドラ 尾崎(えいこ セオドラ おざき、: Yei Theodora Ozaki1871年 - 1932年12月28日)は、イギリス生まれの日系翻訳家。『日本昔話』(Japanese Fairy Tales) を英訳し、これは没後も再刊されている。尾崎行雄の後妻で、娘に「難民を助ける会」の設立者の相馬雪香がいる。

来歴

父親は男爵尾崎三良で、三良がロンドン留学中に語学教師を務めたウイリアム・モリソンの娘バサイアと結婚し、生まれた娘のひとりである。両親は5年間の結婚の後に離婚して、三良は妻子を置いて帰国し、セオドラは16歳までイギリスで育てられた。離婚同意書に母バサイアが子供の養育に困った際は子供を日本に送ることができるという条項があったことから、1885年に祖父のウィリアム死去により生活に困窮したバサイアは英子の日本行きをロンドン総領事の園田孝吉に相談、もともと引き取ることに賛成だった尾崎はすぐ了承し旅費を送った[1]

バサイアは英子を手放すことをためらったが、尾崎の再三の催促により、1887年に16歳で来日し、頌栄女学校のアメリカ人女性宣教師や式部権頭の桜井能監に半年ほど預けられたのち、聖アンデレ教会ショウ牧師夫妻に引き取られ、香蘭女学校の助教師となった[1]。18歳から縁談が4回持ち込まれたが、いずれも拒否[1]。20歳で父親から独立して教師で身を立て、1891年に駐日英国公使のヒュー・フレイザー夫人の個人秘書となり英国大使館に住み込んだ[1]。フレイザー公使の急死によりイタリアに転居した夫人を追って1895年に渡欧し、2年間夫人とともにイタリアに滞在したのち、ロンドンの母のもとに戻った[1]

ロンドンでの母子の生活は楽ではなく、1898年に母子宅に下宿していた門野幾之進から窮状を聞いた福沢諭吉が同情し、慶應義塾幼稚舎の英語教師の職を紹介、1899年に再来日[1]。1903年に教師を辞め、巖谷小波のお伽噺をもとに、日本の有名な昔話22編を収録した『Japanese Fairy Tales』を出版[1]。好評を得たため刊行が続き、西洋社会で誤解されがちな日本の女性についての物語なども執筆した[1]。日本の社交界でも人気を集め、日露戦争の取材に来たタイムズ特派員と韓国を訪れるなど活躍した[1]。同姓ゆえの郵便配達の誤配がきっかけで尾崎行雄と親しくなり、1905年に結婚[1]。幸せな結婚生活を送っていたが、肉腫病を患い、アメリカで手術をしたが1932年に行雄らと滞在中のロンドンで死去した[1]。行雄との間に清香、品江、行輝、雪香があり、雪香は相馬恵胤に嫁いだ。

著書

  • Japanese Fairy Tales または The Japanese Fairy Book
  • Warriors of old Japan, and other stories
  • Romances of old Japan
  • Buddha's crystal and other fairy stories

『日本昔話』の挿絵

脚注

  1. ^ a b c d e f g h i j k 長岡祥三, 尾崎行雄夫人セオドーラの半生」『英学史研究』 1995年 1996巻 2 号 p.57-71, 日本英学史学会, doi:10.5024/jeigakushi.1996.57, NAID 130003624910

関連項目

外部リンク