「大道村 (大阪府)」の版間の差分

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'''大道村'''(だいどうむら)は、かつて[[大阪府]][[西成郡]]に存在した村。現在の[[大阪市]][[東淀川区]]の東部にあたる。
'''大道村'''(だいどうむら)は、かつて[[大阪府]][[西成郡]]に存在した村。現在の[[大阪市]][[東淀川区]]の東部にあたる。
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== 歴史 ==
== 歴史 ==
三宝寺跡伝承地の発掘では[[縄文土器]]が発見されている<ref>[http://www.mus-his.city.osaka.jp/news/2011/tenjigae/111011.html 三宝寺跡伝承地(東淀川区)出土の縄文土器と寺院関係遺物] - [[大阪歴史博物館]]</ref><ref>[http://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I025097616-00 三宝寺跡伝承地D地点発掘調査報告]</ref>。
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『[[日本書紀]]』の[[応神天皇|応神]]朝22年([[291年]])3月5日の条に「天皇幸難波、居於大隅宮、登高台而遠望 (すめたみこと なにわ みゆきし おおすみのみやにおいて たかきやに のぼりて えんぼうす)」との記載がある。現在の大隅神社の場所が、応神天皇の離宮である「大隅宮」の建てられていた大隅島であったとされる<ref>[http://www.city.osaka.lg.jp/higashiyodogawa/page/0000061490.html 大隅神社] - 大阪市東淀川区</ref>。


『[[日本紀]]』の[[安閑天皇|安閑]]朝2年([[532年]])913日の条に勅して牛を難波大隅並び媛島松原しむ」と記されいる この難波大隅と媛島松原は、[[霊亀]]2年(716年に「大隅媛島の二牧を罷む」という続日本紀にもある。[[平安時代]]に入っても、こ付近では乳牛を放牧してそ[[牛乳]]を朝廷に献上しており ちには乳牛の牧う荘園になった<ref>[http://www.osakacommunity.jp/higashiyodogawa/mach_wagamachi.html 東淀川区のなりたち]</ref>。
『[[日本紀]]』の[[応神天皇|応神]]朝22年([[291年]])35日の条に「天皇幸難波、居於大隅宮、登高台而遠望 (すめたみこと なわ みゆきし おおすみのみやおいて かきやに のぼりえんぼうす)」とがある。現在大隅神社場所が応神天皇離宮である大隅宮の建てられてた大隅島であったとされる<ref>[http://www.city.osaka.lg.jp/higashiyodogawa/page/0000061490.html 大隅神社] - 大阪市東淀川区</ref>。


『[[続日本紀]]』の[[安閑天皇|安閑]]朝2年([[532年]])9月13日の条に、「勅して牛を難波大隅並びに媛島松原に放たしむ」と記されている この難波大隅と媛島松原は、[[霊亀]]2年(716年)に「大隅媛島の二牧を罷む」という記述が続日本紀にもある。[[平安時代]]に入っても、この付近では乳牛を放牧してその[[牛乳]]を朝廷に献上しており、のちには「乳牛の牧」という荘園になった<ref>[http://www.osakacommunity.jp/higashiyodogawa/mach_wagamachi.html 東淀川区のなりたち]</ref>。
中世以降、乳牛牧荘大道村とも呼ばれていた<ref>井上正雄『大阪府全志』巻之3、大阪府全志発行所、1922年{{要ページ番号|date=2018-01}}</ref>。現在の[[大桐]]5丁目には、乳牛牧跡の石碑がある<ref>[http://www.city.osaka.lg.jp/higashiyodogawa/page/0000028091.html 乳牛牧跡(ちゅうしまきあと・ちちうしのまきあと)] - 大阪市東淀川区</ref>。

中世以降、乳牛牧荘大道村とも呼ばれていた<ref>井上正雄『大阪府全志』巻之3、大阪府全志発行所、1922年{{要ページ番号|date=2018-01}}</ref>。現在の[[大桐]]5丁目には、乳牛牧跡の石碑がある<ref>[http://www.city.osaka.lg.jp/higashiyodogawa/page/0000028091.html 乳牛牧跡(ちゅうしまきあと・ちちうしのまきあと)] - 大阪市東淀川区</ref>。


大道村の範囲は広く、今の大桐、大道南、[[瑞光 (大阪市)|瑞光]]、大隅、井高野、小松をも含んでいた。なお、この地には、三宝寺、辻堂、東頭、別所、今在家、逆巻、濱、井高野、島頭などと呼ばれる地域(字地)もあった<ref>井上正雄『大阪府全志』巻之3、大阪府全志発行所、1922年{{要ページ番号|date=2018-01}}</ref>。
大道村の範囲は広く、今の大桐、大道南、[[瑞光 (大阪市)|瑞光]]、大隅、井高野、小松をも含んでいた。なお、この地には、三宝寺、辻堂、東頭、別所、今在家、逆巻、濱、井高野、島頭などと呼ばれる地域(字地)もあった<ref>井上正雄『大阪府全志』巻之3、大阪府全志発行所、1922年{{要ページ番号|date=2018-01}}</ref>。


小松は、大道新家、北大道村大字小松や中嶋(中島)村大字小松などと時代によって違っている<ref>井上正雄『大阪府全志』巻之3、大阪府全志発行所、1922年{{要ページ番号|date=2018-01}}</ref><ref>西岡秀爾「{{PDFlink|[https://www.jstage.jst.go.jp/article/ibk1952/55/2/55_2_1007/_pdf 摂津中 嶋三宝寺とその周辺]}}」『印度学仏教学研究』55巻2号、日本印度仏教学会、2007年</ref>。[[1868年]][[明治]]元年)に大道新家村から小松村に正式に改称され、[[町村制]]施行に際しては江口村と合併して中島村が発足している。
小松は、大道新家、北大道村大字小松や中嶋(中島)村大字小松などと時代によって違っている<ref>井上正雄『大阪府全志』巻之3、大阪府全志発行所、1922年{{要ページ番号|date=2018-01}}</ref><ref>西岡秀爾「[https://doi.org/10.4259/ibk.55.1007 摂津中嶋三宝寺とその周辺]」『印度学仏教学研究』 2007年 55巻 2号 p.1007-1004,1288, {{doi|10.4259/ibk.55.1007}}、日本印度仏教学会</ref>。1868年(明治元年)に大道新家村から小松村に正式に改称され、[[町村制]]施行に際しては江口村と合併して中島村が発足している。


阪巻村は現在淀川の川底にある<ref>[http://www.city.osaka.lg.jp/higashiyodogawa/page/0000026560.html 逆巻地蔵] - 大阪市東淀川区</ref>。
阪巻村は現在淀川の川底にある<ref>[http://www.city.osaka.lg.jp/higashiyodogawa/page/0000026560.html 逆巻地蔵] - 大阪市東淀川区</ref>。
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明治時代初期に作成された『旧高旧領取調帳』(きゅうだかきゅうりょうとりしらべちょう)<ref>[https://www.rekihaku.ac.jp/up-cgi/login.pl?p=param/kyud/db_param 旧高旧領取調帳]</ref>によると
明治時代初期に作成された『旧高旧領取調帳』(きゅうだかきゅうりょうとりしらべちょう)<ref>[https://www.rekihaku.ac.jp/up-cgi/login.pl?p=param/kyud/db_param 旧高旧領取調帳]</ref>によると
*摂津国 西成郡 南大道村:仙石松渓知行所 大阪府
*摂津国 西成郡 南大道村:仙石松渓知行所 大阪府
*摂津国 西成郡 西大道村:仙石松渓知行所 大阪府
*摂津国 西成郡 西大道村:仙石松渓知行所 大阪府
*摂津国 西成郡 北大道村:土井大炊頭(古河藩)領分 [[古河県]]
*摂津国 西成郡 北大道村:土井大炊頭(古河藩)領分 [[古河県]]


となっている。 なお、南大道村=大道村(大道村大字南大道)、西大道村=三宝寺村(大道村大字三宝寺)、北大道村=辻堂村(大道村大字辻堂)だと考えられている{{要出典|date=2018-01}}。
となっている。なお、南大道村=大道村(大道村大字南大道)、西大道村=三宝寺村(大道村大字三宝寺)、北大道村=辻堂村(大道村大字辻堂)だと考えられている{{要出典|date=2018-01}}。


=== 沿革 ===
=== 沿革 ===
* [[1643年]]([[寛永]]20年) [[西成郡]]大道村が北大道村、西大道村、南大道村に分村。
* [[1643年]]([[寛永]]20年) [[西成郡]]大道村が北大道村、西大道村、南大道村に分村。
** 大道新家村はこの時の成立とも、[[1672年]]([[寛文]]12年)の成立とも言われる。
** 大道新家村はこの時の成立とも、1672年([[寛文]]12年)の成立とも言われる。
* [[1889年]][[明治]]22年)[[4月1日]] [[町村制]]の施行により、西成郡北大道村、西大道村、南大道村が合併して西成郡大道村(町村制)が発足。[[大字]]北大道に村役場を設置。
* 1889年(明治22年)4月1日 [[町村制]]の施行により、西成郡北大道村、西大道村、南大道村が合併して西成郡大道村(町村制)が発足。[[大字]]北大道に村役場を設置。
* [[1925年]][[大正]]14年)4月1日 大阪市第2次市域拡張により、新設の[[東淀川区]]の一部となる。
* 1925年(大正14年)4月1日 大阪市第2次市域拡張により、新設の[[東淀川区]]の一部となる。


== 脚注 ==
== 脚注 ==
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<references />


== 関連項目 ==
== 関連項目 ==

2019年6月13日 (木) 02:30時点における版

だいどうむら
大道村
廃止日 1925年4月1日
廃止理由 新設合併
西成郡・東成郡計17町27村→大阪市
(大阪市第二次市域拡張)
現在の自治体 大阪市
廃止時点のデータ
日本の旗 日本
地方 近畿地方
都道府県 大阪府
西成郡
総人口 1,468
国勢調査、1920年)
隣接自治体 西成郡中島村新庄村豊里村
三島郡吹田町
北河内郡庭窪村守口町
大道村役場
所在地 大阪府西成郡大道村大字北大道
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大道村(だいどうむら)は、かつて大阪府西成郡に存在した村。現在の大阪市東淀川区の東部にあたる。

歴史

三宝寺跡伝承地の発掘では縄文土器が発見されている[1][2]


日本書紀』の応神朝22年(291年)3月5日の条に「天皇幸難波、居於大隅宮、登高台而遠望 (すめたみこと なにわ みゆきし おおすみのみやにおいて たかきやに のぼりて えんぼうす)」との記載がある。現在の大隅神社の場所が、応神天皇の離宮である「大隅宮」の建てられていた大隅島であったとされる[3]

続日本紀』の安閑朝2年(532年)9月13日の条に、「勅して牛を難波大隅並びに媛島松原に放たしむ」と記されている この難波大隅と媛島松原は、霊亀2年(716年)に「大隅媛島の二牧を罷む」という記述が続日本紀にもある。平安時代に入っても、この付近では乳牛を放牧してその牛乳を朝廷に献上しており、のちには「乳牛の牧」という荘園になった[4]

中世以降、乳牛牧荘大道村とも呼ばれていた[5]。現在の大桐5丁目には、乳牛牧跡の石碑がある[6]

大道村の範囲は広く、今の大桐、大道南、瑞光、大隅、井高野、小松をも含んでいた。なお、この地には、三宝寺、辻堂、東頭、別所、今在家、逆巻、濱、井高野、島頭などと呼ばれる地域(字地)もあった[7]

小松は、大道新家、北大道村大字小松や中嶋(中島)村大字小松などと時代によって違っている[8][9]。1868年(明治元年)に大道新家村から小松村に正式に改称され、町村制施行に際しては江口村と合併して中島村が発足している。

阪巻村は現在淀川の川底にある[10]

昔、淀川を京に向け逆上る船は、大宮神社の森を目標にして西風を利用して逆航し、当時の大宮神社付近で帆を一担おろし、舵を北に取って帆を逆に巻き揚げ北進し、辻堂の浜にかかって舵を東に帆を元にもどして、江口・鳥飼へと東進し、川を逆上って行ったと言われている。この大宮神社があった付近が阪巻村である。大宮神社は移動して、現在大道南3丁目2-2にある[11]


明治時代初期に作成された『旧高旧領取調帳』(きゅうだかきゅうりょうとりしらべちょう)[12]によると

  • 摂津国 西成郡 南大道村:仙石松渓知行所 大阪府
  • 摂津国 西成郡 西大道村:仙石松渓知行所 大阪府
  • 摂津国 西成郡 北大道村:土井大炊頭(古河藩)領分 古河県

となっている。なお、南大道村=大道村(大道村大字南大道)、西大道村=三宝寺村(大道村大字三宝寺)、北大道村=辻堂村(大道村大字辻堂)だと考えられている[要出典]

沿革

  • 1643年寛永20年) 西成郡大道村が北大道村、西大道村、南大道村に分村。
    • 大道新家村はこの時の成立とも、1672年(寛文12年)の成立とも言われる。
  • 1889年(明治22年)4月1日 町村制の施行により、西成郡北大道村、西大道村、南大道村が合併して西成郡大道村(町村制)が発足。大字北大道に村役場を設置。
  • 1925年(大正14年)4月1日 大阪市第2次市域拡張により、新設の東淀川区の一部となる。

脚注

  1. ^ 三宝寺跡伝承地(東淀川区)出土の縄文土器と寺院関係遺物 - 大阪歴史博物館
  2. ^ 三宝寺跡伝承地D地点発掘調査報告
  3. ^ 大隅神社 - 大阪市東淀川区
  4. ^ 東淀川区のなりたち
  5. ^ 井上正雄『大阪府全志』巻之3、大阪府全志発行所、1922年[要ページ番号]
  6. ^ 乳牛牧跡(ちゅうしまきあと・ちちうしのまきあと) - 大阪市東淀川区
  7. ^ 井上正雄『大阪府全志』巻之3、大阪府全志発行所、1922年[要ページ番号]
  8. ^ 井上正雄『大阪府全志』巻之3、大阪府全志発行所、1922年[要ページ番号]
  9. ^ 西岡秀爾、「摂津中嶋三宝寺とその周辺」『印度学仏教学研究』 2007年 55巻 2号 p.1007-1004,1288, doi:10.4259/ibk.55.1007、日本印度学仏教学会
  10. ^ 逆巻地蔵 - 大阪市東淀川区
  11. ^ 大宮 - 大阪市東淀川区
  12. ^ 旧高旧領取調帳

関連項目