高杉東一

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明治4年5月、木戸孝允と梅之進(手前)と木戸正二郎(右)
明治4年9月29日、梅之進と木戸松子

高杉 東一(たかすぎ とういち、元治元年(1864年)10月 - 大正2年(1913年)7月11日)は、明治時代の外交官高杉晋作の長男。母は雅子。幼名は梅之進。名は春雄とも。

略歴[編集]

父・晋作は梅之進が4歳の時に死去。父の死後はから山口城下茶臼山(現・山口市白石)に移り住み、母と祖父母に育てられる。慶応3年(1867年)6月17日家督。明治4年(1871年)5月、祖父・小忠太の了承のもと、木戸孝允に伴われて東京を訪れ、木戸とその養子正二郎と梅之進、木戸の妻・松子と梅之進が写る写真2枚が木戸家に残されている。

明治10年(1877年)、梅之進の教育のため一家で上京した。商法講習所(一橋大学の前身)で学び、外交官となる。

明治15年に伊藤博文に従って洋行する。明治21年、『英和新国民大辞典』を編纂し、辻本尚書堂から出版。外交官として海外に駐在した。明治20年11月30日、谷氏から高杉氏に改姓。谷梅之進から高杉東一に改名する。

大正2年(1913年)、48歳で東京で死去。

新井荘兵衛三女・茂との間に暢子(大正2年没)・治子(明治30年没)・春太郎(昭和32年5月没)・晋二郎(明治44年没)の4人の子をもうけるが、3人は早世し、母の雅子は晩年の取材で、夫・子・孫と多くに先立たれた肉親の縁の薄さと寂しさを語っている。唯一残った春太郎の子に勝があり、晋作の子孫は現在まで続いている。

参考文献[編集]

  • 一坂太郎 『高杉晋作』文藝春秋文春新書)、2002年。
  • 長井純市、馬場宏恵著「寺内正毅宛杉山茂丸書翰案内」法政大学文学部紀要、2014年

関連項目[編集]