馬田昌調
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馬田 昌調(まだ しょうちょう[1]、生年不詳 - 文政元年10月20日(1818年11月18日))は、江戸時代の医師・戯作者。諱は弘麟、昌調。別号に雨香園、稗海亭、柳浪、青洋など。雨香園柳浪、馬田柳浪とも記される。
生涯
[編集]筑後久留米藩儒広津藍渓の二男として生まれる。長崎の医師・馬田家を継ぎ、馬田昌調と名乗る。
一時期大坂南本町に住み、医業のかたわら戯作を執筆して名を馳せた。中国語に通じ、中国文学を好んだ。大坂を訪問した大田南畝や曲亭馬琴と交流している。
1811年(文化8年)、近松徳三の歌舞伎狂言『朝顔日記』をもとに、読本『朝顔日記』を出版。昌調の読本版『朝顔日記』は好評を博し、さらに歌舞伎狂言や人形浄瑠璃への改作が行われた。歌舞伎・浄瑠璃では『生写朝顔話』(あるいは『生写朝顔日記』)として上演されている。
家族
[編集]子の広津弘信は医師から外交官に転じた。
孫(弘信の子)の広津直人は作家となり、広津柳浪の名で知られている。「柳浪」は祖父馬田昌調の別号から取られたと推測する説がある[2]。
註
[編集]参考文献
[編集]- 篠原正一『久留米人物誌』(久留米人物誌刊行委員会、1981年)