阿久津村事件

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阿久津村事件(あくつむらじけん)は、1932年昭和7年)に栃木県塩谷郡阿久津村(現・高根沢町)で発生した小作料減免をめぐる争議。小作争議史上有数の刑事事件となった。

概要[編集]

栃木県内で最も豊かな穀倉地帯といわれた阿久津村は、事件当時は少数地主の支配下にあり、自小作農家は5割から6割8分の小作料を納めていた。

1930年(昭和5年)、阿久津村の自小作農民たちは農民組合を結成し、地主に対し1反歩あたり肥料代7円貸付・7年間月賦債還の要求を提出した。さらに凶作の影響のため、1931年(昭和6年)に結成した全国農民組合阿久津支部が改めて小作料4割軽減の追加要求を出した。しかし地主の大部分はこれを拒否し、地主の野沢茂堯は大日本生産党に応援を求めた。

大日本生産党員は農民組合幹部を日本刀や槍で襲撃・監禁し、小作人には組合脱退を強要するなどの暴行を働き、組合事務所を占拠した。そのため、各地から動員された農民・労働者200人あまりが熟田村(現・さくら市)の上野久内宅に集結し、占拠された組合事務所の奪回を目指して進んだが、途中で両者が衝突して大乱闘となり、大日本生産党員5人が死亡し、他の党員も全員負傷するという結果を招いた。

同事件によって109人の農民組合員が起訴され、47人が実刑判決を受けたが、当時北高根沢村花岡で医院を経営していた菅又薫民政党の県会議員、第15代(1932年 - 1939年)北高根沢村長)の調停により、「契約小作料の一割減額」「二割は貧件(年賦償還)」「七割は本年度に納付」とすることで解決した[1]

脚注[編集]

  1. ^ 1932年3月8日の『朝日新聞』において、「小作人側の要求通り五割減を認めた上、内一割五分は取立て中止し、争議費用として二〇〇円を地主側が支出することに決定」したと報道されたが、3月30日の『下野日々新聞』をはじめ各新聞には「取消」として記事が掲載された。

参考文献[編集]