趙粲

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趙 粲(ちょう さん、? - 300年)は、中国西晋の武帝司馬炎の側室。楊艶(武帝の元皇后)の母方の従姉妹にあたる。

生涯[編集]

父は趙虞(楊艶の母趙氏の弟)。

楊艶は幼い時に母を亡くし、母方の叔父である趙俊の家で養われた。楊艶が立后した時、趙俊は高い官位を与えられた。趙粲も後宮入りして妃嬪[1]となった。

太子妃賈南風が、太子の側室を胎児ごと殺した際、司馬炎は激怒し、賈南風を太子司馬衷と離婚させようとした。趙粲は「太子妃は若いので嫉妬を避けられません」として弁護した。司馬衷(恵帝)が即位すると、皇后となった賈南風は趙粲を信任し、妹の賈午と趙粲と共によく相談した。賈皇后の母郭槐は「趙粲と賈午は事の成就には役立たない上、貴方の家事をぶち壊しにするには十二分です」と説いたが、賈皇后は気にかけなかった。その後、賈皇后は趙粲や賈午と共に計略を用い、庶出子の太子司馬遹に反逆の罪を着せて殺害した。

賈皇后の失脚後、趙粲と賈午も共謀罪を問われ、杖殺刑に処された。

脚注[編集]

  1. ^ 晋書』武元皇后伝:「納俊兄虞女粲于後宮為夫人(三妃の一つ)」。しかし『晋書』恵皇后伝には「充華(九嬪の一つ)趙粲从容言曰」とある。

伝記資料[編集]

  • 晋書』列伝 后妃上
  • 『晋書』列伝 司馬倫伝