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立花貞晟

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

立花 貞晟(たちばな さだあきら、万治3年(1660年) - 享保5年10月24日1720年11月23日))は、江戸時代前期・中期の江戸幕府旗本寄合席筑後柳河藩主家・立花氏分家の立花弾正家初代。

柳河藩第2代藩主立花忠貞(忠茂)の8男で生母は伊達忠宗の娘で江戸幕府将軍・徳川秀忠の養女である鍋姫。正室は仙台藩主・伊達綱宗の娘である智恵姫。側室は昌善院。実子は松子、蓮の女子2人[1]。養子は立花清直(右京、後の立花貞俶)で後に柳河藩第5代藩主。

幼名は千徳丸、源五郎。元服時、父・忠貞の1字を取って貞晟と名乗る。通称は弾正。

経歴

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第3代藩主・立花鑑虎の同母弟にあたる。延宝4年(1676年)に同母兄の立花茂辰とともに将軍徳川家綱初御目見え元禄10年(1697年6月14日、甥で第4代藩主・立花鑑任より三潴郡新田5,000石[2]新田分知されて、江戸幕府の旗本寄合席となる。鑑任から信頼されており、江戸留守居役に貞晟の意見を仰ぐように指示を出している[3]

元禄7年(1694年)に正室の智恵姫をいとこ婚で迎えたが後に離婚[4]し、側室の昌善院との間には元禄12年(1699年)生まれの松子とその妹の蓮のみしか生まれず、正徳2年(1712年7月11日に婿養子として庶兄・立花茂虎の孫・立花清直(のちの貞俶)を迎える。

正徳3年(1713年)に刊行された山口屋権兵衛蔵板の賞延武鑑では、駿府加番に「五千石 下谷御かち丁 立花弾正」との記載がある。

墓所は江戸深川の本誓寺。享年61。旗本の立花弾正家家督は貞俶が相続するが、貞俶が第5代柳河藩主となったので宗家の柳河藩に吸収され、以降旗本として再興されなかった。

脚注

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  1. ^ 「柳川市史別冊 図説立花家記」60pから67p
  2. ^ 「柳川市史別冊 図説立花家記」51p
  3. ^ 「柳川市史別冊 図説立花家記」
  4. ^ 寛政重修諸家譜」の仙台藩主家伊達氏系図に離婚した旨の記載がある

参考文献

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  • 「新訂寛政重修諸家譜・第2」(1964年、続群書類従刊行会)
  • 「柳川市史別冊 図説立花家記」(柳川市史編集委員会編集、2010年3月30日発行)
  • 『改定増補 大武鑑 上巻』(橋本博、1965年、名著刊行会)