王薄

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王 薄(おう はく、生年不詳 - 622年)は、中国隋末の民衆叛乱の指導者。に帰順して、斉州総管となった。本貫斉郡鄒平県

生涯[編集]

611年、王薄は長白山(現在の山東省済南市章丘区)に拠って、隋に叛いた。斉郡・済北郡の近郊を攻撃し、知世郎を自称した。「無向遼東浪死歌」を作って流行させ、煬帝高句麗遠征を忌避する人々を集めた。

613年、大軍に驕って備えを怠り、隋の斉郡郡丞張須陀泰山のふもとで敗れた。残兵をまとめて黄河を渡ったが、臨邑で再び張須陀に敗れた。孫宣雅・郝孝徳らと連係して章丘を攻撃したが、張須陀にまた敗れた。楊玄感の乱が鎮圧された後、李密が逃亡してくると、王薄は淮陽の村舎にかくまった。

619年宇文化及が北上してくると、利益に誘われてこれに従い、ともに聊城に入った。竇建徳が聊城を包囲すると、王薄は門を開いて竇建徳の軍を迎え入れた。同年3月、唐に帰順して、斉州総管に任ぜられた。

621年徐円朗に従っていた青州萊州密州の人々を説得して、唐に帰順させた。

622年、盛彦師とともに須昌を攻撃した。軍の食糧を譚州で徴収することになったが、王薄と譚州刺史の李義満のあいだは険悪であり、李義満は倉を閉じて食糧を与えなかった。須昌を降した後、盛彦師は李義満を斉州の獄に収監した。釈放するよう高祖李淵の命が下ったが、その詔が届く前に李義満は獄死した。ときに王薄が譚州を通ると、李義満の兄の子の李武意に捕らえられ、殺された。

代表作[編集]

無向遼東浪死歌[1]
無向遼東浪死歌
原文 書き下し文
長白山前知世郎,純著紅羅綿背襠。
長槊侵天半,輪刀耀日光。
上山吃獐鹿,下山吃牛羊。
忽聞官軍至,提刀向前盪。
譬如遼東死,斬頭何所傷。
莫向遼東去,迢迢去路長。
老親倚閭望,少婦守空房。
有田不得耕,有事誰相将。
一去不知何日返,日上龍堆憶故郷。
莫向遼東去,従來行路難。
長河渡無舟,高山接雲端。
清霜衣苦薄,大雪骨欲剜。
日落寒山行不息,蔭冰臥雨摧心肝。
莫向遼東去,夷兵似虎豺。
長剣碎我身,利鏃穿我腮。
性命只須臾,節俠誰悲哀。
功成大将受上賞,我獨何為死蒿萊!

脚注[編集]

注釈[編集]

出典[編集]

  1. ^ 『全隋詩』「巻八」ウィキソース出典 王薄 (中国語), 無向遼東浪死歌, ウィキソースより閲覧。