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ロバート・ブルース・ゼーリック Robert Zoellick (1953年7月25日生まれ)は、前職のアメリカ合衆国国務次官(2006年7月7日に辞職)である。
'''ロバート・ブルース・ゼーリック'''('''Robert Zoellick''', 1953年7月25日生まれは、前職のアメリカ合衆国国務次官(2006年7月7日に辞職である。
現職の前に、合衆国通商代表として2001年2月7日から2005年2月22日まで仕えた。
現職の前に、合衆国通商代表として2001年2月7日から2005年2月22日まで仕えた。
2006年6月19日にゴールドマン・サックス証券の国際戦略部のマネージング・ディレクター兼代表として加わるためであった。
2006年6月19日に[[ゴールドマン・サックス]]証券の国際戦略部のマネージング・ディレクター兼代表として加わるためであった。


ロバート・ゼーリックはまた、多くの民間と公的組織での役員として役目を果たしている。アリアンス キャピタル、セイドホールディングス、およびプレキューサー グループなどがあり;エンロンとビベンチャーの顧問会議のメンバー; アスペン研究所の戦略グループの指導官、外交評議会、合衆国のドイツのマーシャル基金、および世界野生生物諮問委員会として; そして、ウィリアムセバスチャン・コーエン長官の防衛政策委員会のメンバーでもある. 彼は外交評議会と日米欧委員会のメンバーである。彼のキャリアはビジネスと政府とが密接につながっていることをを示している。
ロバート・ゼーリックはまた、多くの民間と公的組織での役員として役目を果たしている。アリアンス キャピタル、セイドホールディングス、およびプレキューサー グループなどがあり;エンロンとビベンチャーの顧問会議のメンバー; アスペン研究所の戦略グループの指導官、外交評議会、合衆国のドイツの[[マーシャル基金]]、および[[世界野生生物諮問委員会]]として; そして、[[ウィリアムセバスチャン・コーエン]]長官の防衛政策委員会のメンバーでもある. 彼は外交評議会と[[日米欧委員会]]のメンバーである。彼のキャリアはビジネスと政府とが密接につながっていることをを示している。


= キャリア =
= キャリア =
ゼーリックは、イリノイ州のナパービルで育てられ、ドイツ人の血が流れている。1975年にスワスモア大学卒業後、ハーバード大学行政大学院(ケネディ・スクール)で修士号を取得、さらに、同大学法律大学院で法律学博士号を取得した。
ゼーリックは、[[イリノイ州]][[ナパービル]]で育てられ、[[ドイツ人]]の血が流れている(「''ツェリック''」)。1975年に[[スワスモア大学]]卒業後、[[ハーバード大学]]行政大学院([[ケネディ・スクール]])で修士号を取得、さらに、同大学法律大学院で法律学博士号を取得した。


== 政府用役(1985-1992) ==
== 政府用役(1985-1992) ==
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しかし、2005年5月25日、ニューヨーク・タイムズ紙は、ゼーリックが自らの劣勢に疑問を持っており、すぐにでも辞職する可能性があることを報じた。
しかし、2005年5月25日、ニューヨーク・タイムズ紙は、ゼーリックが自らの劣勢に疑問を持っており、すぐにでも辞職する可能性があることを報じた。
ゼーリックは、最低1年間国務次官として役目を果たすことに同意したが、民間部門に戻るというゼーリックの願望は広く知られていた。
ゼーリックは、最低1年間国務次官として役目を果たすことに同意したが、民間部門に戻るというゼーリックの願望は広く知られていた。

[[Category:アメリカ合衆国の政治家|せりく ろはと]]
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2006年11月6日 (月) 06:15時点における版

ロバート・ブルース・ゼーリックRobert Zoellick, 1953年7月25日生まれ)は、前職のアメリカ合衆国国務次官(2006年7月7日に辞職)である。 現職の前に、合衆国通商代表として2001年2月7日から2005年2月22日まで仕えた。 2006年6月19日にゴールドマン・サックス証券の国際戦略部のマネージング・ディレクター兼代表として加わるためであった。

ロバート・ゼーリックはまた、多くの民間と公的組織での役員として役目を果たしている。アリアンス キャピタル、セイドホールディングス、およびプレキューサー グループなどがあり;エンロンとビベンチャーの顧問会議のメンバー; アスペン研究所の戦略グループの指導官、外交評議会、合衆国のドイツのマーシャル基金、および世界野生生物諮問委員会として; そして、ウィリアム・セバスチャン・コーエン長官の防衛政策委員会のメンバーでもある. 彼は外交評議会と日米欧委員会のメンバーである。彼のキャリアはビジネスと政府とが密接につながっていることをを示している。

キャリア

ゼーリックは、イリノイ州ナパービルで育てられ、ドイツ人の血が流れている(「ツェリック」)。1975年にスワスモア大学卒業後、ハーバード大学行政大学院(ケネディ・スクール)で修士号を取得、さらに、同大学法律大学院で法律学博士号を取得した。

政府用役(1985-1992)

ゼーリックは1985年から1988年までの財務省の様々な要職に就いた。 「ジョージ H. W. ブッシュ大統領の政権の間、ゼーリックは国務省顧問、経済担当次官として国務長官のジェームズ・ベーカーと共に貢献した。」「1992年8月に、ゼーリックはホワイトハウス副首席補佐官と大統領補佐官に任命された。」また、ゼーリックは1991年と1992年にG-7 経済サミットのシェルパに任命された。

ビジネスとアカデミー、1993-2001

政府を離れた後にゼーリックは、1993年から1997年までゼーリックは連邦の機関の副総裁に任命され、1997年から1998年まで国家安全保障の教授として米国海軍兵学校に勤め、ハーバード大学のジョン F. ケネディスクールで、ベルファーセンターの研究員として勤め、ゴールドマンサックスのアドバイザーとなった。 2000年の大統領l選挙運動の間、コンドリーザ・ライスが導くグループの一員として、ゾーリックは外交政策アドバイザーとしてジョージ W. ブッシュに仕えた。

米通商代表部、2001-2005

ジョージ W. ブッシュ大統領の始めの任期の時、米通商代表部と名付けられ事務総局のメンバーであった。米通商代表部ウェブサイトによると、ゼーリックは、中国と台湾を世界貿易機関(WTO)に加入するように交渉を完了して、ドーハでのWTOミーティングで新しい多角的通商交渉を始めるための戦略をたて、ジョーダン自由貿易協定とベトナム貿易協定の際に議会の行動を見張って、新しい貿易促進権限を含んでいた2002年のTrade条例を通すために議会と共に活動した。

国務次官、2005-2006

2005年1月7日、ゼーリックは、ジョージ.W.ブッシュ大統領に国務次官に指名され、2005年2月22日に就任した。 しかし、2005年5月25日、ニューヨーク・タイムズ紙は、ゼーリックが自らの劣勢に疑問を持っており、すぐにでも辞職する可能性があることを報じた。 ゼーリックは、最低1年間国務次官として役目を果たすことに同意したが、民間部門に戻るというゼーリックの願望は広く知られていた。