「ノート:梶原一騎」の版間の差分

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: 当該記述に関しては現時点では周辺評価に欠け、また不評が多数のようですので、重要ではない事柄として、記載の必要はないということでよろしいでしょうか。--[[利用者:Floe~jawiki|Floe~jawiki]]([[利用者‐会話:Floe~jawiki|会話]]) 2021年11月5日 (金) 09:21 (UTC)、2021年11月5日 (金) 10:07 (UTC)加筆
: 当該記述に関しては現時点では周辺評価に欠け、また不評が多数のようですので、重要ではない事柄として、記載の必要はないということでよろしいでしょうか。--[[利用者:Floe~jawiki|Floe~jawiki]]([[利用者‐会話:Floe~jawiki|会話]]) 2021年11月5日 (金) 09:21 (UTC)、2021年11月5日 (金) 10:07 (UTC)加筆
::ご理解ありがとうございます。正直、小島一志氏の『梶原一騎正伝』については[https://www.amazon.co.jp/%E7%B4%94%E6%83%85%E2%80%95%E6%A2%B6%E5%8E%9F%E4%B8%80%E9%A8%8E%E6%AD%A3%E4%BC%9D%E2%80%95-%E5%B0%8F%E5%B3%B6%E4%B8%80%E5%BF%97-ebook/dp/B08WCR3T8B/ref=pd_sim_3/355-9874992-6199152?pd_rd_w=A4ocr&pf_rd_p=e2d8154e-eaa7-4e5c-92b5-da933ded21eb&pf_rd_r=5VBDJVJ3VJT8CTC2DT42&pd_rd_r=65da3aac-d69a-4871-870e-2ab89126405f&pd_rd_wg=L7z8M&pd_rd_i=B08WCR3T8B&psc=1 amazonのレビュー]などを見る限り、「ノンフィクションとはいえない」という趣旨のレビューが極めて多いです。遺族である長男は具体的に『梶原一騎正伝』の名前は挙げていませんが、[https://twitter.com/JOE_ATproducts/status/1367102221381292037 「納得いかない。正しいかどうか確認もできずにそれを読んだ多くの人の中で歪められた形が真実になっていく」]とTwitter上で発言されていました。このツィートが2020年3月3日で、『梶原一騎正伝』の発売が同年2月25日。時期的に遺族は『梶原一騎正伝』に苦言を呈しながら無視したということだろうと私は理解していました。このほか『梶原一騎正伝』について私の知る限り、個人のブログなどとのぞき書評は見ていないですが、梶原一騎の出自に限らず、内容の全てについてソースとしては不適切でしょう。--[[利用者:ゆとりすけ|ゆとりすけ]]([[利用者‐会話:ゆとりすけ|会話]]) 2021年11月6日 (土) 07:38 (UTC)
::ご理解ありがとうございます。正直、小島一志氏の『梶原一騎正伝』については[https://www.amazon.co.jp/%E7%B4%94%E6%83%85%E2%80%95%E6%A2%B6%E5%8E%9F%E4%B8%80%E9%A8%8E%E6%AD%A3%E4%BC%9D%E2%80%95-%E5%B0%8F%E5%B3%B6%E4%B8%80%E5%BF%97-ebook/dp/B08WCR3T8B/ref=pd_sim_3/355-9874992-6199152?pd_rd_w=A4ocr&pf_rd_p=e2d8154e-eaa7-4e5c-92b5-da933ded21eb&pf_rd_r=5VBDJVJ3VJT8CTC2DT42&pd_rd_r=65da3aac-d69a-4871-870e-2ab89126405f&pd_rd_wg=L7z8M&pd_rd_i=B08WCR3T8B&psc=1 amazonのレビュー]などを見る限り、「ノンフィクションとはいえない」という趣旨のレビューが極めて多いです。遺族である長男は具体的に『梶原一騎正伝』の名前は挙げていませんが、[https://twitter.com/JOE_ATproducts/status/1367102221381292037 「納得いかない。正しいかどうか確認もできずにそれを読んだ多くの人の中で歪められた形が真実になっていく」]とTwitter上で発言されていました。このツィートが2020年3月3日で、『梶原一騎正伝』の発売が同年2月25日。時期的に遺族は『梶原一騎正伝』に苦言を呈しながら無視したということだろうと私は理解していました。このほか『梶原一騎正伝』について私の知る限り、個人のブログなどとのぞき書評は見ていないですが、梶原一騎の出自に限らず、内容の全てについてソースとしては不適切でしょう。--[[利用者:ゆとりすけ|ゆとりすけ]]([[利用者‐会話:ゆとりすけ|会話]]) 2021年11月6日 (土) 07:38 (UTC)
::: {{コメント}} 一般論になってしまいますが、[[オーラル・ヒストリー]]の類においては意見の相違は珍しくなく、主観と客観の切り分けが重要とされています。口述は客観的な根拠としては薄弱(今回の件では小島もそれを傍証している)ですが、各人がどう認識していたかという主観においては、証言が直接的に得られている分には真であると言えますので、その点は留意すべきだと思います(証言を捏造・曲解しているといった主張がない限り)。
::::<small>[https://hdl.handle.net/10086/28656 山口;金 2017 p.19より引用]:<br/>「口述資料は信頼できる。しかし、それは異なった信頼性に基づいている。口述資料が重要なのは、それが事実どおりだからではなく、想像や象徴、願望の現れとして事実から距離を取っているからだ。だから、『間違った』口述資料などない。既に確立された文献的な史料批判の基準によって事実的な信頼性を確かめ、事実に基づいて立証すれば(それはどんな種類の資料であっても必要なことだ)、オーラル・ヒストリーの多様性は、事実としては『間違った』言明も、心理的には『本当』だというところにある。そして、この真実はおそらく、事実として信頼できる言葉と同じくらい重要なものだろう。」(ポルテッリ, 2016, p.94)</small>
:::今回の件では、その上で各人の認識がどういった重要性を持っていたのか、という評価の面が欠けているとの指摘をいただきましたので、その点で記載する意義に欠くかなと思いました。--[[利用者:Floe~jawiki|Floe~jawiki]]([[利用者‐会話:Floe~jawiki|会話]]) 2021年11月6日 (土) 11:49 (UTC)


== 作品の特色 ==
== 作品の特色 ==

2021年11月6日 (土) 11:49時点における版

このページは一度削除が検討されました。削除についての議論はWikipedia:削除依頼/梶原一騎をご覧ください。


伝記における記載の除去について

伝記において言及されている在日説の記述[1]について、新規アカウントの利用者:Aice456会話 / 投稿記録さんおよび利用者:進加悦会話 / 投稿記録さんによって繰り返し除去されているのですが、除去の理由が示されていないため、なぜ除去されているのかわかりません。

基本的には出典に基づいた記述であるため、除去する理由はないと思われるのですが、何かしらWikipedia:五本の柱に沿った理由があると思われるのならば、投稿時の要約欄または当ノートで示していただきたいと思います。

正当な理由がないのならば、このような行為はWikipedia:荒らし#不当な白紙化に該当しますので、控えていただくようお願いします。--Floe~jawiki会話2021年10月14日 (木) 13:21 (UTC)[返信]

コメント 利用者:Aice456会話 / 投稿記録さんの2021年10月18日 (月) 08:55 UTC版の要約欄におけるコメントを引用すると「信頼できる情報源で無いため削除が適当と思います。 出自に対するデリケートな案件にも関わらず、公的な証明が無いと作者自ら述べてます。 そして、そう言う本を参考文献に入れるべきでは無いのでは、と思います。」とのことです。
信頼できる情報源でないとのことですが、「Wikipedia:信頼できる情報源」に照らして、新潮社から出版されていること、複数の著名人の証言をまとめたものであること、各人に帰属した意見として書かれていること、伝記著者自身が根拠のない主張をしていないことから、除去すべき問題のある記述とは考えられません。--Floe~jawiki会話2021年10月18日 (月) 11:26 (UTC)[返信]
コメント 反論などないようなので記述は戻してよろしいでしょうか?
また補足ですが、Wikipedia:信頼できる情報源に「信頼できる情報源は、自身の情報の流れの中にある、観察に裏付けられた主張・仮定ではあるが非常に確度の高いものと、思惑や憶測の域を出ないもの・噂とを区別化しています。」とある通り「公的な証明が無いと作者自ら述べて」いることはむしろ信頼性を評価できる点といえます。--Floe~jawiki会話2021年11月2日 (火) 12:12 (UTC)[返信]
コメント出典になっている『梶原一騎正伝』は私も読みましたが、著者の小島一志については取材不足による批判が多く寄せられており、かなり信頼性は低い著作だと思います。根拠は全て格闘技関係者の伝聞にすぎませんし、「伝聞の伝聞」まで紹介している様子です。小島一志氏は梶原一騎の出自について、ご子息など存命の親族に取材をした形跡も全くありません。よって出典は信頼できる情報源とは考えられません。また、著者自身も『梶原一騎正伝』において「高森朝樹(梶原一騎の本名)及び高森龍夫(梶原一騎の父親)が帰化した記録がないか、電子化された官報を1942年以降で検索をかけたが見つからなかった。」と述べられています。小島一志の著作以外、ほかの資料がないのであれば除去が相当だろうと考えられます。--ゆとりすけ会話2021年11月4日 (木) 01:53 (UTC)[返信]
コメント ご意見ありがとうございます。
批判というのはどういった形で寄せられているのでしょうか?(関係者、専門家、アマチュア、匿名?) 伝記著者自身が説に対し断定的な結論を出していないのは前述の通り悪いことではありませんし、親族への取材は限定されることもあると思います。著名関係者の伝聞というのはその人の認識・意見でもありますから、単に真実を反映しているか否かだけでなく、一部関係者の間で噂という形で共通認識があったという事実を示す点で重要性があると思います。一冊の伝記以外扱っていないという点は確かに慎重に扱う必要があると思いますが、その点では帰属的に書く(「○○によれば~」形式)という配慮をすれば問題はないと思います。--Floe~jawiki会話2021年11月4日 (木) 07:18 (UTC)[返信]

(インデント戻す) コメント Wikipedia:ウィキペディアは何ではないかという観点からコメント致します。共通認識と言われるほど、この噂に重要性があるんでしょうか?

この噂が梶原一騎の著作にどれほど影響を及ぼしたのかを、『梶原一騎正伝』に記されていれば、当該記事に載せる特筆すべき事実かもしれません。しかし『梶原一騎正伝』を確認する限り、極真のごく限られた関係者がこの噂を発していたという内容しか見当たらず、この噂が流れた背景も『梶原一騎正伝』には記されていません。おまけに伝聞の伝聞という体でもあり、尚更載せる必要はないと思います。

帰属的に書くとのことですが、出典があれば、何でもウィキペディアに記載してよいわけではありません。存命人物でないとはいえ、梶原の事績に結びつかない噂は些末な情報でしかなく、当該記事に載せる重要性があるとは思えません。

をご一読いただき、高品質の百科事典を作成するという方針を逸脱しない範囲で、出典を用いるべきだと考えます。--59.3.253.49 2021年11月5日 (金) 04:23 (UTC)[返信]

提案 ご意見ありがとうございます。
当該記述に関しては現時点では周辺評価に欠け、また不評が多数のようですので、重要ではない事柄として、記載の必要はないということでよろしいでしょうか。--Floe~jawiki会話2021年11月5日 (金) 09:21 (UTC)、2021年11月5日 (金) 10:07 (UTC)加筆[返信]
ご理解ありがとうございます。正直、小島一志氏の『梶原一騎正伝』についてはamazonのレビューなどを見る限り、「ノンフィクションとはいえない」という趣旨のレビューが極めて多いです。遺族である長男は具体的に『梶原一騎正伝』の名前は挙げていませんが、「納得いかない。正しいかどうか確認もできずにそれを読んだ多くの人の中で歪められた形が真実になっていく」とTwitter上で発言されていました。このツィートが2020年3月3日で、『梶原一騎正伝』の発売が同年2月25日。時期的に遺族は『梶原一騎正伝』に苦言を呈しながら無視したということだろうと私は理解していました。このほか『梶原一騎正伝』について私の知る限り、個人のブログなどとのぞき書評は見ていないですが、梶原一騎の出自に限らず、内容の全てについてソースとしては不適切でしょう。--ゆとりすけ会話2021年11月6日 (土) 07:38 (UTC)[返信]
コメント 一般論になってしまいますが、オーラル・ヒストリーの類においては意見の相違は珍しくなく、主観と客観の切り分けが重要とされています。口述は客観的な根拠としては薄弱(今回の件では小島もそれを傍証している)ですが、各人がどう認識していたかという主観においては、証言が直接的に得られている分には真であると言えますので、その点は留意すべきだと思います(証言を捏造・曲解しているといった主張がない限り)。
山口;金 2017 p.19より引用:
「口述資料は信頼できる。しかし、それは異なった信頼性に基づいている。口述資料が重要なのは、それが事実どおりだからではなく、想像や象徴、願望の現れとして事実から距離を取っているからだ。だから、『間違った』口述資料などない。既に確立された文献的な史料批判の基準によって事実的な信頼性を確かめ、事実に基づいて立証すれば(それはどんな種類の資料であっても必要なことだ)、オーラル・ヒストリーの多様性は、事実としては『間違った』言明も、心理的には『本当』だというところにある。そして、この真実はおそらく、事実として信頼できる言葉と同じくらい重要なものだろう。」(ポルテッリ, 2016, p.94)
今回の件では、その上で各人の認識がどういった重要性を持っていたのか、という評価の面が欠けているとの指摘をいただきましたので、その点で記載する意義に欠くかなと思いました。--Floe~jawiki会話2021年11月6日 (土) 11:49 (UTC)[返信]

作品の特色

「作品の特色」の冒頭で、梶原は佐藤紅緑福井英一の流れを受け継いだもの、という記述があります。この段落は2009年1月20日 (火) 17:52時点における版で一度に書かれたものです。3つの文献が示されていますが、これは出典の合成だと思います。

まず、米沢嘉博『戦後野球マンガ史』p.35、とありますが、このページに書かれているのは「佐藤紅緑――福井英一――梶原一騎へと流れていく熱血物の系譜」があったことであり、『イガグリくん』がこの流れにある、という話は出てきません。実は49ページから『イガグリくん』を取り上げた後、「多くの作品が福井英一のスタイルを(中略)模倣していった」(51ページ)と述べているので、この本に基づいて『イガグリくん』の名前を出すのは許容範囲でしょうが、p.35だけでは出典の提示として不十分だと思います。

では教養小説はどこから出てきたのかというと、西村繁男『まんが編集術』p.329が『巨人の星』について、「昔の熱血もの、佐藤紅緑プラス、もうちょっとハードな教養小説的な要素を持ちながら始めてる」と述べています。しかし、これを戦前の教養小説を受け継いだもの、と表現するのは乱暴でしょう。

また串間努『少年ブーム』p.101は、梶原は戦前の佐藤を受け継いだスポ根だとすれば、戦後のスポ根第一号が 『イガグリくん』だ、としており、「佐藤――福井――梶原」という流れではとらえていないように思います。

つまりは3つの文献の記載を単に足し合わせてあるうえに、個々の文献の主張とも微妙なずれがあるわけです。まずは『イガグリくん』の派生としてとらえるかどうかから決めないと、どうにもならないのではないでしょうか。--西村崇会話2021年10月18日 (月) 15:59 (UTC)[返信]