「由良国繁」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
編集の要約なし
9行目: 9行目:
正妻は[[結城晴朝]]の娘。長男貞繁、次男[[由良忠繁|忠繁]]ら二男三女あり。内養女一人。
正妻は[[結城晴朝]]の娘。長男貞繁、次男[[由良忠繁|忠繁]]ら二男三女あり。内養女一人。


{{先代次代|[[横瀬氏|高家由良家初代当主]]|?~1611|([[由良成繁]])|[[横瀬貞繁]]}}
{{先代次代|[[横瀬氏|高家由良家初代当主]]|?~1611|([[由良成繁]])|[[由良貞繁]]}}


[[Category:横瀬氏|くにしけ]]
[[Category:横瀬氏|くにしけ]]

2006年10月23日 (月) 02:55時点における版

由良 国繁(ゆら くにしげ、1550年天文19年) - 1611年慶長16年1月3日))は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将由良成繁の嫡男で、渡瀬繁詮長尾顕長の兄に当たる。生母は赤井幸家の娘。幼名は国寿丸。通称は六郎、新六郎、式部大輔、信濃守。

由良氏の第九代当主で、1578年の父の死の前後くらいから家督を継いでいたという。1584年北条氏の命により、上野国金山城から桐生城に移ることとなった。

1590年豊臣秀吉小田原攻めでは、国繁は豊臣側に与しようとしたが、北条氏に脅迫されて小田原城に籠もることを余儀なくされた。しかし、嫡男の由良貞繁と彼の妻が豊臣氏に与して功を挙げたことにより、北条氏滅亡後は罪を問われず、秀吉の家臣として仕えた。戦後、豊臣秀吉から常陸国牛久において5400石余の所領を安堵された。

秀吉の死後、徳川家康に仕えた。関が原の合戦に際しては、江戸城の守備を命じられた。戦後、下総国相馬郡内1600石余を加えられて、合計7000石余を知行した。

正妻は結城晴朝の娘。長男貞繁、次男忠繁ら二男三女あり。内養女一人。

先代
由良成繁
高家由良家初代当主
?~1611
次代
由良貞繁