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[[元和]]9年([[1623年]])兄貞繁の死去により、家督を相続する。ただし、御目見をしていなかったために知行5000石を1000石に減らされる。「のち[[大沢基重]]が務に准じ近侍す」(『[[寛政重修諸家譜]]』)とあり、高家職に準じた職務を担当していたようである。その後、辞職したという。寛永11年([[1634年]])書院番に列し、[[徳川家光]]の上洛に従う。その後、辞職したという。寛永16年(1639年)2月15日死去、31歳。
[[元和]]9年([[1623年]])兄貞繁の死去により、家督を相続する。ただし、御目見をしていなかったために知行5000石を1000石に減らされる。「のち[[大沢基重]]が務に准じ近侍す」(『[[寛政重修諸家譜]]』)とあり、高家職に準じた職務を担当していたようである。その後、辞職したという。寛永11年([[1634年]])書院番に列し、[[徳川家光]]の上洛に従う。その後、辞職したという。寛永16年(1639年)2月15日死去、31歳。


正妻は[[近藤用可]]の娘。長男[[由良貞房|貞房]]ら二男あり。
正妻は[[近藤用可]]の娘。長男貞房ら二男あり。

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2006年10月23日 (月) 02:55時点における版

由良 忠繁(ゆら ただしげ、慶長14年(1609年) - 寛永16年2月15日1639年3月19日))は、江戸時代高家旗本由良国繁の次男。別名貞長。初め長繁のち忠繁。通称は五郎八、新六郎、市兵衛。

元和9年(1623年)兄貞繁の死去により、家督を相続する。ただし、御目見をしていなかったために知行5000石を1000石に減らされる。「のち大沢基重が務に准じ近侍す」(『寛政重修諸家譜』)とあり、高家職に準じた職務を担当していたようである。その後、辞職したという。寛永11年(1634年)書院番に列し、徳川家光の上洛に従う。その後、辞職したという。寛永16年(1639年)2月15日死去、31歳。

正妻は近藤用可の娘。長男貞房ら二男あり。

先代
由良貞繁
高家由良家3代当主
1623~1639
次代
由良貞房