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[[595年]](推古天皇3年)に来朝して日本に仏教を広め、翌[[596年]](推古天皇4年)に[[法興寺]](現在の飛鳥寺安居院)が完成すると、[[高句麗]]から渡来した[[恵慈]]と住し、ともに'''三宝の棟梁'''と称された。「三国仏法伝縁起」によれば、[[三論宗]](南都六宗の一つ)の学僧で[[聖徳太子]]の仏法の師となったという。
[[595年]](推古天皇3年)に来朝して日本に仏教を広め、翌[[596年]](推古天皇4年)に[[法興寺]](現在の飛鳥寺安居院)が完成すると、[[高句麗]]から渡来した[[恵慈]]と住し、ともに'''三宝の棟梁'''と称された。「三国仏法伝縁起」によれば、[[三論宗]](南都六宗の一つ)の学僧で[[聖徳太子]]の仏法の師となったという。


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[[Category:飛鳥時代の人物|えそう]]
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2006年10月9日 (月) 19:06時点における版

慧聡(えそう、生没年不詳)は、飛鳥時代百済から渡来した

595年(推古天皇3年)に来朝して日本に仏教を広め、翌596年(推古天皇4年)に法興寺(現在の飛鳥寺安居院)が完成すると、高句麗から渡来した恵慈と住し、ともに三宝の棟梁と称された。「三国仏法伝縁起」によれば、三論宗(南都六宗の一つ)の学僧で聖徳太子の仏法の師となったという。 Template:Buddhism stub