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'''小西 隆佐'''('''こにし りゅうさ''')は、[[戦国時代_(日本)|戦国時代]]から[[安土桃山時代]]にかけての[[堺]]の豪商。[[豊臣秀吉]]の家臣。「立佐」とも言われる。 |
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小西行正の子として生まれる。[[永禄]]8年([[1565年]])、[[ルイス・フロイス]]の師事を受けて[[キリシタン]]となった。霊名はジョウチン。天正13年([[1585年]])から秀吉に仕え、[[河内]]・和泉における[[豊臣氏]]の蔵入地の代官に任命された。天正15年([[1587年]])の[[九州征伐]]では兵糧の補給役を命じられている。 |
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2006年10月5日 (木) 07:43時点における版
小西 隆佐(こにし りゅうさ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての堺の豪商。豊臣秀吉の家臣。「立佐」とも言われる。
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時代 | 戦国時代から安土桃山時代 |
生誕 | 不明 |
死没 | 天正20年(1592年) |
別名 | 弥九郎 |
霊名 | ジアチン |
官位 | 和泉守 |
氏族 | 小西氏 |
父母 | 父:小西行正 |
妻 | 正室:小西マグダレーナ |
子 | 小西如清、小西行長、小西行景 |
小西行正の子として生まれる。永禄8年(1565年)、ルイス・フロイスの師事を受けてキリシタンとなった。霊名はジョウチン。天正13年(1585年)から秀吉に仕え、河内・和泉における豊臣氏の蔵入地の代官に任命された。天正15年(1587年)の九州征伐では兵糧の補給役を命じられている。
これらの功績から、天正18年(1590年)11月4日、法眼に任じられた。天正20年(1592年)、朝鮮出兵が始まると肥前名護屋城に入るが、まもなく発病して堺から京都に戻り、そして京都で死去した。