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[[ジャワ]]陥落後、[[小スンダ列島]]の警備担当問題で現地の陸海軍が対立した。陸海軍中央協定では海軍が警備する予定であったが、1942年3月11日、陸軍の南方軍総司令官[[寺内寿一]]大将は第16軍司令官に対して、小スンダ列島での戡定作戦と事後の警備任務を命じた。南方軍は防衛上から小スンダ列島線占領確保の重要性を認め、また軍政と警備を一致させるべきという考えから、軍政も陸軍に変更するため中央協定の改定を上申していた<ref>戦史叢書54 南西方面海軍作戦 第二段作戦以降 37-38頁</ref>。4月中旬、海軍は警備を軍政と一致させる関係上、中央協定通り海軍が警備を引き継ぐことを第16軍に申し入れ、南方軍総司令官はそれを容れて戡定作戦の実施だけを4月23日に発令し、中央協定通りになり、一応の解決した(この問題自体はその後も長引いた)<ref>戦史叢書54 南西方面海軍作戦 第二段作戦以降 38-39頁</ref>。
[[ジャワ]]陥落後、[[小スンダ列島]]の警備担当問題で現地の陸海軍が対立した。陸海軍中央協定では海軍が警備する予定であったが、1942年3月11日、陸軍の南方軍総司令官[[寺内寿一]]大将は第16軍司令官に対して、小スンダ列島での戡定作戦と事後の警備任務を命じた。南方軍は防衛上から小スンダ列島線占領確保の重要性を認め、また軍政と警備を一致させるべきという考えから、軍政も陸軍に変更するため中央協定の改定を上申していた<ref>戦史叢書54 南西方面海軍作戦 第二段作戦以降 37-38頁</ref>。4月中旬、海軍は警備を軍政と一致させる関係上、中央協定通り海軍が警備を引き継ぐことを第16軍に申し入れ、南方軍総司令官はそれを容れて戡定作戦の実施だけを4月23日に発令し、中央協定通りになり、一応の解決した(この問題自体はその後も長引いた)<ref>戦史叢書54 南西方面海軍作戦 第二段作戦以降 38-39頁</ref>。


4月20日、東印部隊司令部は、陸軍との共同の小スンダ列島戡定作戦について関係部隊に準備を指示する。24日、小スンダ列島戡定作戦(S作戦)の実施を下令。この作戦の部隊は「S攻略部隊」と呼ばれた<ref>戦史叢書54 南西方面海軍作戦 第二段作戦以降 39頁</ref>。5月7日、S攻略部隊指揮官[[原顕三郎]]少将(第16戦隊司令官)はスラバヤにおいて、「機密東印部隊S攻略部隊命令作第一号」を発令して作戦計画を明らかにした<ref>戦史叢書54 南西方面海軍作戦 第二段作戦以降 39-40頁</ref>。
4月20日、東印部隊司令部は、陸軍との共同の小スンダ列島戡定作戦について関係部隊に準備を指示する。24日、小スンダ列島戡定作戦(S作戦)の実施を下令。この作戦の部隊は「S攻略部隊」と呼ばれた<ref>戦史叢書54 南西方面海軍作戦 第二段作戦以降 39頁</ref>。5月7日、S攻略部隊指揮官[[原顕三郎]]少将(第16戦隊司令官)はスラバヤにおいて、「機密東印部隊S攻略部隊命令作第一号」を発令して作戦計画を明らかにした<ref>戦史叢書54 南西方面海軍作戦 第二段作戦以降 39-40頁</ref>。


5月8日、S攻略部隊はスラバヤを出発し、ほとんど抵抗を受けることもなく、予定より早く占領、掃討が済み、21日から25日の間にスラバヤに帰着した。25日、S攻略部隊の編成を解いた<ref>戦史叢書54 南西方面海軍作戦 第二段作戦以降 48頁</ref>。
5月8日、S攻略部隊はスラバヤを出発し、ほとんど抵抗を受けることもなく、予定より早く占領、掃討が済み、21日から25日の間にスラバヤに帰着した。25日、S攻略部隊の編成を解いた<ref>戦史叢書54 南西方面海軍作戦 第二段作戦以降 48頁</ref>。

2020年7月5日 (日) 12:47時点における版

小スンダ列島戡定作戦(しょうすんだれっとうかんていさくせん)は、太平洋戦争時に日本軍が行った作戦。別名は「S作戦」[1]

経過

ジャワ陥落後、小スンダ列島の警備担当問題で現地の陸海軍が対立した。陸海軍中央協定では海軍が警備する予定であったが、1942年3月11日、陸軍の南方軍総司令官寺内寿一大将は第16軍司令官に対して、小スンダ列島での戡定作戦と事後の警備任務を命じた。南方軍は防衛上から小スンダ列島線占領確保の重要性を認め、また軍政と警備を一致させるべきという考えから、軍政も陸軍に変更するため中央協定の改定を上申していた[2]。4月中旬、海軍は警備を軍政と一致させる関係上、中央協定通り海軍が警備を引き継ぐことを第16軍に申し入れ、南方軍総司令官はそれを容れて戡定作戦の実施だけを4月23日に発令し、中央協定通りになり、一応の解決した(この問題自体はその後も長引いた)[3]

4月20日、東印部隊司令部は、陸軍との共同の小スンダ列島戡定作戦について関係部隊に準備を指示する。24日、「小スンダ列島戡定作戦(S作戦)」の実施を下令。この作戦の部隊は「S攻略部隊」と呼ばれた[4]。5月7日、S攻略部隊指揮官原顕三郎少将(第16戦隊司令官)はスラバヤにおいて、「機密東印部隊S攻略部隊命令作第一号」を発令して作戦計画を明らかにした[5]

5月8日、S攻略部隊はスラバヤを出発し、ほとんど抵抗を受けることもなく、予定より早く占領、掃討が済み、21日から25日の間にスラバヤに帰着した。25日、S攻略部隊の編成を解いた[6]

脚注

  1. ^ 戦史叢書54 南西方面海軍作戦 第二段作戦以降 39頁
  2. ^ 戦史叢書54 南西方面海軍作戦 第二段作戦以降 37-38頁
  3. ^ 戦史叢書54 南西方面海軍作戦 第二段作戦以降 38-39頁
  4. ^ 戦史叢書54 南西方面海軍作戦 第二段作戦以降 39頁
  5. ^ 戦史叢書54 南西方面海軍作戦 第二段作戦以降 39-40頁
  6. ^ 戦史叢書54 南西方面海軍作戦 第二段作戦以降 48頁