「ミカエル1世コムネノス・ドゥーカス」の版間の差分
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{{出典の明記|date=2012年2月|ソートキー=人1215年没___世界史}} |
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{{基礎情報 君主 |
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| 人名 = ミカエル1世コムネノス・ドゥーカス |
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| 各国語表記 = {{lang|el|Μιχαήλ Άγγελος Κομνηνός Δούκας}} |
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| 画像 = Seal of Michael Komnenos Doukas.png |
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| 画像サイズ = |
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| 画像説明 = ミカエル1世コムネノス・ドゥーカスのシール |
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| 在位 = [[1205年]] - [[1215年]] |
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| 戴冠日 = |
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| 就任式 = |
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| 祝祷式 = |
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| 即位式 = |
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| 別号 = |
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| 配偶号 = |
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| 在位2 = |
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| 戴冠日2 = |
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| 配偶別号 = |
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| 全名 = |
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| 出生日 = 1170年頃 |
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| 生地 = |
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| 死亡日 = [[1215年]] |
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| 没地 = |
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| 埋葬日 = |
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| 埋葬地 = |
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| 継承者 = |
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| 継承形式 = |
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| 配偶者1 = |
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| 子女 = [[ミカエル2世アンゲロス・コムネノス]](庶子) |
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| 王家 = [[アンゲロス王朝|アンゲロス家]] |
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| 王朝 = コムネノス・ドゥーカス朝 |
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| 王室歌 = |
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| 父親 = [[ヨハネス・アンゲロス・ドゥーカス]] |
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| 母親 = |
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| 宗教 = |
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| サイン = |
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[[File:Berat - Festung 1b Zwinger Monogramm Michael Komnenos.jpg|thumb|200px|ベラト城城壁にあるミカエル1世のモノグラム]] |
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尊厳公(セバストクラトル)・[[ヨハネス・アンゲロス・ドゥーカス]]の庶子。父ヨハネスは[[東ローマ帝国]][[皇帝]][[イサキオス2世アンゲロス|イサキオス2世]]・[[アレクシオス3世アンゲロス|アレクシオス3世]]の父アンドロニコス・アンゲロスの兄弟であり、したがってミカエルは両帝の従兄弟という親族関係となる。 |
尊厳公(セバストクラトル)・[[ヨハネス・アンゲロス・ドゥーカス]]の庶子。父ヨハネスは[[東ローマ帝国]][[皇帝]][[イサキオス2世アンゲロス|イサキオス2世]]・[[アレクシオス3世アンゲロス|アレクシオス3世]]の父アンドロニコス・アンゲロスの兄弟であり、したがってミカエルは両帝の従兄弟という親族関係となる。 |
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その後は[[ラテン帝国]]から[[コンスタンティノポリス]]奪還を目指し、[[ギリシャ人]]のラテン帝国への抵抗を指導した。ミカエル1世はラテン帝国との戦いを優勢のうちに進め、1215年には[[コリントス]]湾から[[アルバニア]]に至る西北ギリシアを支配し、バルカン半島に一大勢力を築き上げた。しかし同年、ミカエル1世は暗殺されてしまった。 |
その後は[[ラテン帝国]]から[[コンスタンティノポリス]]奪還を目指し、[[ギリシャ人]]のラテン帝国への抵抗を指導した。ミカエル1世はラテン帝国との戦いを優勢のうちに進め、1215年には[[コリントス]]湾から[[アルバニア]]に至る西北ギリシアを支配し、バルカン半島に一大勢力を築き上げた。しかし同年、ミカエル1世は暗殺されてしまった。 |
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== 脚注 == |
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== 参考文献 == |
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|years=1204-1215 |
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2020年3月14日 (土) 07:58時点における最新版
ミカエル1世コムネノス・ドゥーカス Μιχαήλ Άγγελος Κομνηνός Δούκας | |
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エピロス専制公 | |
ミカエル1世コムネノス・ドゥーカスのシール | |
在位 | 1205年 - 1215年 |
出生 |
1170年頃 |
死去 |
1215年 |
子女 | ミカエル2世アンゲロス・コムネノス(庶子) |
家名 | アンゲロス家 |
王朝 | コムネノス・ドゥーカス朝 |
父親 | ヨハネス・アンゲロス・ドゥーカス |
ミカエル1世コムネノス・ドゥーカス(Μιχαήλ Άγγελος Κομνηνός Δούκας, Michael Angelos Komnenos Doukas, 1170年頃 - 1215年)は、エピロス専制侯国の初代専制公(在位:1205年 - 1215年)。
尊厳公(セバストクラトル)・ヨハネス・アンゲロス・ドゥーカスの庶子。父ヨハネスは東ローマ帝国皇帝イサキオス2世・アレクシオス3世の父アンドロニコス・アンゲロスの兄弟であり、したがってミカエルは両帝の従兄弟という親族関係となる。
生涯[編集]
1204年、第4回十字軍の攻撃を受けて東ローマ帝国が滅びると、ミカエル1世は一時、テッサロニキ王国のボニファチオに仕えた。翌年、ギリシャ西岸にあるアルタを本拠地として独立国・エピロス専制侯国を建国した。ミカエルの専制公称号は彼が独自に名乗ったものであり、それまでの専制公のように皇帝から与えられたものではなかった。
その後はラテン帝国からコンスタンティノポリス奪還を目指し、ギリシャ人のラテン帝国への抵抗を指導した。ミカエル1世はラテン帝国との戦いを優勢のうちに進め、1215年にはコリントス湾からアルバニアに至る西北ギリシアを支配し、バルカン半島に一大勢力を築き上げた。しかし同年、ミカエル1世は暗殺されてしまった。
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