「ワレラン1世・ド・リュクサンブール=リニー」の版間の差分
削除された内容 追加された内容
m編集の要約なし |
m →参考文献 |
||
37行目: | 37行目: | ||
== 参考文献 == |
== 参考文献 == |
||
* Detlev Schwennicke: Europäische Stammtafeln Band I.2 (1999) Tafel 231 |
* Detlev Schwennicke: Europäische Stammtafeln Band I.2 (1999) Tafel 231 |
||
{{先代次代|リニー領主|1281年 - 1288年|-|[[アンリ2世・ド・リュクサンブール=リニー|アンリ2世]]}} |
|||
{{DEFAULTSORT:われらん1}} |
{{DEFAULTSORT:われらん1}} |
2019年11月16日 (土) 01:24時点における版
ワレラン1世・ド・リュクサンブール=リニー Waléran Ier de Luxembourg-Ligny | |
---|---|
リニー領主 | |
ヴォリンゲンの戦い | |
在位 | 1281年 - 1288年 |
死去 |
1288年6月5日 ヴォリンゲン |
配偶者 | ジャンヌ・ド・ボールヴォワール |
子女 |
アンリ2世 ワレラン2世 |
家名 | ルクセンブルク=リニー家 |
父親 | ルクセンブルク伯ハインリヒ5世 |
母親 | マルグリット・ド・バル |
ワレラン1世・ド・リュクサンブール(仏:Waléran Ier de Luxembourg(-Ligny), ? - 1288年6月5日)は、中世フランスのリニー、ルシーおよびラ・ロッシュの領主(1281年 - 1288年)。リンブルク=ルクセンブルク家の17世紀まで続いた傍系ルクセンブルク=リニー家の始祖にあたる。
生涯
ルクセンブルク伯ハインリヒ5世とその妻でバル伯アンリ2世の娘であるマルグリット・ド・バル(1220年 - 1275年11月23日)の間の息子として生まれた。兄ハインリヒ6世が父の後を継いだため、ワレランは母方から相続したリニーの領主となった。ボールヴォワールの領主マチュー2世の娘で相続人のジャンヌ・ド・ボールヴォワール(1300年没)と結婚し、2男4女をもうけた。息子の1人ワレラン2世(1275年 - 1354年)が父の後を継いでリニー領主となった。
ブラバント公家とヘルレ(ゲルデルン)伯家のリンブルフをめぐる係争(リンブルフ継承戦争)ではヘルレ陣営につき、1288年のヴォリンゲンの戦いで兄ハインリヒ6世とともに戦死した。ワレランはトルバドゥール・ジャック・ブルテルの叙事詩「ショヴァンシーのトーナメント(Le Tournoi de Chauvency)」に登場する主要なキャラクターの1人でもある。
参考文献
- Detlev Schwennicke: Europäische Stammtafeln Band I.2 (1999) Tafel 231
|
|
|