「向氏嘉味田殿内」の版間の差分

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== 参考文献 ==
== 参考文献 ==
*沖縄県姓氏家系大辞典 編纂委員会編『沖縄県姓氏家系大辞典』 角川書店 1992年
*沖縄県姓氏家系大辞典 編纂委員会編『沖縄県姓氏家系大辞典』 角川書店 1992年

== 外部リンク ==
* [https://web.archive.org/web/20111007025005/http://www.tulips.tsukuba.ac.jp/limedio/dlam/B1241188/1/vol05/htm/kafu-s22.htm 『向姓家譜(嘉味田家)』]


== 関連項目 ==
== 関連項目 ==

2019年4月26日 (金) 12:31時点における版

嘉味田家
(嘉味田殿内)
本姓 向氏第二尚氏
家祖 尚龍徳(越来王子)
種別 琉球王族・琉球士族
出身地 琉球王国首里
主な根拠地 琉球王国
著名な人物 向銓(歌人)
支流、分家 屋良家、山村家、仲地家、新田家、島袋家など
凡例 / Category:日本の氏族

向氏 嘉味田殿内(しょううじ かみだどぅんち)は、尚真王の四男尚龍徳・越来王子朝福(生没年不詳)を元祖とする琉球士族。第二尚氏の分家。代々越来間切、喜屋武間切などの按司地頭職を務める琉球王国の王族・大名家であったが、王国時代最後の当主、向椿の代で御殿から殿内に家格落ちし、士族となった。

一世尚真王の四男尚龍徳・越来王子朝福と二世までは越来間切を治める。代々喜屋武間切などの按司地頭を務めてきたが、王国末期に養子が続き御殿から殿内に家格落ちし、真和志間切真嘉比村の脇地頭となり、嘉味田殿内と呼ばれる。

系譜

 弟(次男)・向成章・屋良按司朝久(別有家譜)

  • 四世・向良翰・喜屋武按司朝古(尚豊王三女を娶る)
  • 五世・向殿柱・喜屋武按司朝里
  • 六世・向兆鳳・小波津按司朝恒(尚貞王長女を娶る)

 弟(次男)・向兆麟・嵩嶋親雲上朝景(別有家譜)

  • 七世・向棟・喜屋武按司朝寛

 兄(長男)・向鼎 ・翁長按司朝徳
 弟(三男)・向柱・長元親方(別有家譜)

  • 八世・向憲・喜屋武按司朝隆
  • 九世・向銓・喜屋武按司朝教
  • 十世・向弘業・喜屋武按司朝昌(分家十世、山村家より養子)
  • 十一世・向椿・嘉味田親方朝愛(分家十世、山村家より養子、朝昌の従兄弟)
  • 十二世・嘉味田朝珍

系統の歩み

成化年間、嘉靖年間越来間切総地頭職。その後250年近く喜屋武間切総地頭職を務める。

康煕31年(1692年、向殿柱41歳)王府に家譜を提出、「向」の氏名と「朝」の名乗り頭を賜る。(それまでは「袁」の氏名と「頼」の名乗り頭を用いていた。)

琉球国末期、十世向承基が19歳で早逝したため御殿の継承問題がもちあがった。分家十世朝昌を養子に迎え、朝昌は喜屋武按司を継承した。しかし朝昌にも子がなく、実甥の朝郁を養子に迎えた。朝郁も喜屋武按司となったが、6歳で夭逝したため、朝昌の実従兄弟朝愛が朝昌の跡目となった。朝愛は当初喜屋武按司を継いだが、養子が続いたため真和志間切真嘉比村の地頭職に転任(降格)となった。この時から嘉味田親方を名乗り、お家も御殿から殿内に降格となった。

参考文献

  • 沖縄県姓氏家系大辞典 編纂委員会編『沖縄県姓氏家系大辞典』 角川書店 1992年

関連項目