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== 経歴 ==
== 経歴 ==
高緯にとついで皇太子妃となった。[[565年]]4月、高緯が即位すると、皇后に立てられた。[[572年]]1月、娘を生んだが、高緯は斛律光を喜ばせようとして、男子を生んだといつわり、このために大赦をおこなった。7月に父の斛律光が処刑されると、8月に皇后は廃位されて庶人に落とされ、別宮に幽閉された。後に尼となった。北斉が滅ぶと、開府儀同三司の元仁(元景安の子)の妻となった。
高緯にとついで皇太子妃となった。[[565年]]4月、高緯が即位すると、皇后に立てられた。[[572年]]1月、娘を生んだが、高緯は斛律光を喜ばせようとして、男子を生んだといつわり、このために大赦をおこなった。7月に父の斛律光が処刑されると、8月に皇后は廃位されて庶人に落とされ、別宮に幽閉された。後に尼となった。北斉が滅ぶと、開府儀同三司の元仁([[元景安]]の子)の妻となった。


== 伝記資料 ==
== 伝記資料 ==

2018年10月6日 (土) 08:21時点における版

斛律皇后(こくりつこうごう、生没年不詳)は、中国北斉の後主高緯の1人目の皇后斛律光の娘。朔州勅勒部の出身。

経歴

高緯にとついで皇太子妃となった。565年4月、高緯が即位すると、皇后に立てられた。572年1月、娘を生んだが、高緯は斛律光を喜ばせようとして、男子を生んだといつわり、このために大赦をおこなった。7月に父の斛律光が処刑されると、8月に皇后は廃位されて庶人に落とされ、別宮に幽閉された。後に尼となった。北斉が滅ぶと、開府儀同三司の元仁(元景安の子)の妻となった。

伝記資料