「李孝基」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
1行目: 1行目:
'''李 孝基'''(り こうき、? - [[619年]])は、[[中国]]の[[唐]]の[[宗室]]。[[北周]]の[[梁州]][[刺史]]の李璋の子。唐の高祖[[李淵]]の従弟にあたる。
'''李 孝基'''(り こうき、? - [[619年]])は、[[中国]]の[[唐]]の[[宗室]]。[[北周]]の[[梁州]][[刺史]]の李璋([[李虎]]の四男)の子。唐の高祖[[李淵]]の従弟にあたる。


==経歴==
==経歴==

2017年6月5日 (月) 08:52時点における版

李 孝基(り こうき、? - 619年)は、中国宗室北周梁州刺史の李璋(李虎の四男)の子。唐の高祖李淵の従弟にあたる。

経歴

618年、永安王に封ぜられた。陝州総管・鴻臚卿を歴任したが、罪をえて官位を奪われた。

619年劉武周太原を攻撃すると、夏県呂崇茂が呼応して唐にそむいた。孝基は行軍総管としてこれを攻撃したが、尉遅敬徳に敗れて、工部尚書の独孤懐恩や内史侍郎の唐倹、陝州総管の于筠らとともに捕らえられた。逃亡をはかって失敗し、殺害された。晋陽が平定された後、死体は取り戻されないまま、葬儀がおこなわれ、左衛大将軍の位を追贈された。を壮といった。

子がなく、兄の子の李道立が後を継いで高平王に封ぜられたが、のちに県公に降格され、陳州刺史に終わった。

伝記資料

  • 旧唐書』巻六十 列伝第十「宗室伝」
  • 新唐書』巻七十八 列伝第三「宗室伝」