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'''ルクレツィア・ボルジア'''(Lucrezia Borgia, [[1480年]][[4月14日]]、又は[[4月18日|18日]] - [[1519年]][[6月24日]])は[[ルネサンス]]期のローマ教皇[[アレクサンデル6世_(ローマ教皇)|アレクサンデル6世]]の娘。政略結婚に翻弄されたヒロインとして知られる。兄は軍人で悪名高き[[チェーザレ・ボルジア]]。他の同母の兄弟には[[ホアン・ボルジア]]、[[ホフレ・ボルジア]]がいる。
'''ルクレツィア・ボルジア'''(Lucrezia Borgia, [[1480年]][[4月14日]]、又は[[4月18日|18日]] - [[1519年]][[6月24日]])は[[ルネサンス]]期のローマ教皇[[アレクサンデル6世_(ローマ教皇)|アレクサンデル6世]]の娘。政略結婚に翻弄されたヒロインとして知られる。<br>
兄は軍人で悪名高き[[チェーザレ・ボルジア]]。他の同母の兄弟には[[ホアン・ボルジア]]、[[ホフレ・ボルジア]]がいる。


ロドリーゴ・ボルジア(のちのローマ教皇アレクサンデル6世)とその愛人[[ヴァノッツァ・カタネイ]]の間に生まれた庶子。修道院で少女時代を過ごす。父の法王からは、大変に愛されていた娘だったという。
ロドリーゴ・ボルジア(のちのローマ教皇アレクサンデル6世)とその愛人[[ヴァノッツァ・カタネイ]]の間に生まれた庶子。修道院で少女時代を過ごす。父の法王からは、大変に愛されていた娘だったという。


1493年、13歳でミラノ公[[スフォルツァ家|イル・モーロ]]の甥で[[ペーザロ]]のジョヴァンニ・スフォルツァの許に嫁ぐ。しかし、ジョヴァンニと不仲のルクレツィアは、ローマに戻ってしまう。父ロドリーゴは、ジョヴァンニは性的不能で結婚は無効と宣言した。この一連の騒動に嫌気がさしたルクレツィアは、1497年の6月、ドミニコ会修道院に篭ってしまう。しかし、そこでスペイン人従者のペドロ・カルデロンと恋に落ち、彼の子を妊娠してしまう。兄のチェーザレはペドロが口答えしたことに激怒し、彼を殺してしまった。1498年の3月6日、ルクレツィアは、インファンテ・ロマーノを出産。この子供は、父のアレクサンデル6世の子供の戸籍に入れられた。
[[1493年]]、13歳でミラノ公[[スフォルツァ家|イル・モーロ]]の甥で[[ペーザロ]]のジョヴァンニ・スフォルツァの許に嫁ぐ。しかし、ジョヴァンニと不仲のルクレツィアは、ローマに戻ってしまう(一説には、ルクレツィアが幼い事を理由に、父アレクサンデル6世が寝室を別にする事を命じたためだと言われている)。父ロドリーゴは、ジョヴァンニは性的不能で結婚は無効と宣言した。<br>
この一連の騒動に嫌気がさしたルクレツィアは、[[1497年]]の6月、ドミニコ会修道院に篭ってしまう。しかし、そこでスペイン人従者のペドロ・カルデロンと恋に落ち、彼の子を妊娠してしまう。兄のチェーザレはペドロが口答えしたことに激怒し、彼を殺してしまった。<br>
[[1498年]][[3月6日]]、ルクレツィアは、インファンテ・ロマーノを出産。この子供は、父のアレクサンデル6世の子供の戸籍に入れられた。


次いで1498年に[[ナポリ]]アラゴン家のドン・アルフォンソ(元ナポリ王アルフォンソ2世 在位1494-1495年の子)と結婚する。二人の夫婦仲は良かったという。しかし1500年にアルフォンソは暗殺される。兄チェーザレ・ボルジアの指図とも言われる。<!---当時、ルクレツィアと結婚する事、ボルジア家との姻戚関係を結ぶ事は、敵対する事よりも危険で恐ろしい事であったのである。 ← 単なる感想を書かないでほしい--->
次いで[[1498年]]に[[ナポリ]]アラゴン家のドン・アルフォンソ(元ナポリ王アルフォンソ2世 在位1494-1495年の子)と結婚する。二人の夫婦仲は良かったという。しかし[[1500年]]にアルフォンソは暗殺される。兄チェーザレ・ボルジアの指図とも言われる。当時の情勢から、次に手を結ぶ相手とリクレツィアを政略結婚をさせたいため、であったという(死別でなければ再婚できないため。例外として、寝室を一度も共にしていない、つまり性行為をしていない夫婦“白い結婚”だと無条件に離婚・再婚できる((最初の夫ジョヴァンニの場合は、これを狙ったものと思われる)))。<!---当時、ルクレツィアと結婚する事、ボルジア家との姻戚関係を結ぶ事は、敵対する事よりも危険で恐ろしい事であったのである。 ← 単なる感想を書かないでほしい--->


1501年、[[フェラーラ]]領主[[エステ家]]の[[アルフォンソ・デステ]](1476-1534年、のちフェラーラ公アルフォンソ1世 在位1505-1534年)と3度目の結婚。当時、フェラーラはルネサンスの文化が花開いた都市の一つであり、宮廷には各地から文学者や芸術家などが集まっており、ルクレツィアはサロンの女主人として優雅に振舞った。しかし、吝嗇家の傾向がある舅のエルコレ公と、浪費家のルクレツィアとは金銭感覚が合わず、彼女の大勢のスペイン人侍女達への手当てと、家計の費用を巡って議論になった。あまりにも家計に関する議論が絶えないため、彼女が聖クララ会修道院に篭もってしまったこともあるという。詩人、ピエトロ・ベンボと浮名を流したこともあったらしい。しかし、この程度の浮気は夫の顔を潰さぬ程度なら当時の社交界では大目に見られていたようである。また、義姉の[[イザベラ・デステ]]の夫マントヴァ侯フランチェスコ・ゴンザーガとも不倫関係にあり、このことを知った
[[1501年]]、[[フェラーラ]]領主[[エステ家]]の[[アルフォンソ・デステ]](1476-1534年、のちフェラーラ公アルフォンソ1世 在位1505-1534年)と3度目の結婚。<br>
当時、フェラーラはルネサンスの文化が花開いた都市の一つであり、宮廷には各地から文学者や芸術家などが集まっており、ルクレツィアはサロンの女主人として優雅に振舞った。しかし、吝嗇家の傾向がある舅のエルコレ公と、浪費家のルクレツィアとは金銭感覚が合わず、彼女の大勢のスペイン人侍女達への手当てと、家計の費用を巡って議論になった。あまりにも家計に関する議論が絶えないため、彼女が聖クララ会修道院に篭もってしまったこともあるという。<br>
詩人、ピエトロ・ベンボと浮名を流したこともあったらしい。しかし、この程度の浮気は夫の顔を潰さぬ程度なら当時の社交界では大目に見られていたようである。また、義姉の[[イザベラ・デステ]]の夫マントヴァ侯フランチェスコ・ゴンザーガとも不倫関係にあり、このことを知ったイザベラは、ただ二人を軽蔑しただけだったという話もある。二人の不倫関係の真偽の程は定かではないが、ルクレツィアとゴンザーガが親しかったのは確からしく、[[1504年]]に幽閉されたチェーザレ釈放の協力を、ルクレツィアがゴンザーガに頼んだこともある。<br>
[[1502]]年の[[9月5日]]にルクレツィアは妊娠したが、彼女の体調が悪いのを知ったチェーザレは、[[7月28日]]にミラノにいるフランス王を訪ねた後、変装して突然彼女に会いにやって来た。[[9月5日]]にルクレツィアは女児を死産。その間も、ずっとチェーザレはルクレツィアに付き添い、物語や冗談などで彼女をはげました。<br>
イザベラは、ただ二人を軽蔑しただけだったという話もある。二人の不倫関係の真偽の程は定かではないが、
ルクレツィアとゴンザーガが親しかったのは確からしく、1504年に幽閉されたチェーザレ釈放の協力を、ルクレツィアがゴンザーガに頼んだこともある。1502年の9月5日にルクレツィアは妊娠したが、彼女の体調が悪いのを知ったチェーザレは、7月28日にミラノにいるフランス王を訪ねた後、変装して突然彼女に会いにやって来た。9月5日にルクレツィアは女児を死産。その間も、ずっとチェーザレはルクレツィアに付き添い、物語や冗談などで彼女をはげました。1503年に父、1507年に兄チェーザレが死去。ルクレツィアは1519年、6月に未熟児の女児を出産したが[[産褥熱]]にかかり、6月22日に法王レオ10世に宛てて手紙を書いた後、6月24日に母子ともに死去。
[[1503年]]に父、[[1507年]]に兄チェーザレが死去。ルクレツィアは[[1519年]]、6月に未熟児の女児を出産したが[[産褥熱]]にかかり、[[6月22日]]に法王[[レオ10世]]に宛てて手紙を書いた後、[[6月24日]]に母子ともに死去。


ティツィアーノもルクレツィアの肖像画を残している。
ティツィアーノもルクレツィアの肖像画を残している。


[[ボルジア家]]には政敵が多く、アレクサンデル6世が教皇庁を腐敗堕落させたという声は根強い。ルクレツィアは父(または兄)と近親相姦という陰口も叩かれたが、根拠のある話ではない。19世紀に作られた歌劇「ルクレツィア・ボルジア」があるほか、ルクレツィアを題材にした小説なども多い。
[[ボルジア家]]には政敵が多く、アレクサンデル6世が教皇庁を腐敗堕落させたという声は根強い。ルクレツィアは父(または兄)と近親相姦という陰口も叩かれたが、根拠のある話ではない。<br>
19世紀に作られた歌劇「ルクレツィア・ボルジア」があるほか、ルクレツィアを題材にした小説なども多い。


[[Category:イタリア史の人物|ほるしあるくれついあ]]
[[Category:イタリア史の人物|ほるしあるくれついあ]]

2006年6月16日 (金) 08:31時点における版

ファイル:Lucrezia borgia bartolomeo veneziano.jpg
ルクレツィア(Bartolomeo Venezianoの作品)

ルクレツィア・ボルジア(Lucrezia Borgia, 1480年4月14日、又は18日 - 1519年6月24日)はルネサンス期のローマ教皇アレクサンデル6世の娘。政略結婚に翻弄されたヒロインとして知られる。
兄は軍人で悪名高きチェーザレ・ボルジア。他の同母の兄弟にはホアン・ボルジアホフレ・ボルジアがいる。

ロドリーゴ・ボルジア(のちのローマ教皇アレクサンデル6世)とその愛人ヴァノッツァ・カタネイの間に生まれた庶子。修道院で少女時代を過ごす。父の法王からは、大変に愛されていた娘だったという。

1493年、13歳でミラノ公イル・モーロの甥でペーザロのジョヴァンニ・スフォルツァの許に嫁ぐ。しかし、ジョヴァンニと不仲のルクレツィアは、ローマに戻ってしまう(一説には、ルクレツィアが幼い事を理由に、父アレクサンデル6世が寝室を別にする事を命じたためだと言われている)。父ロドリーゴは、ジョヴァンニは性的不能で結婚は無効と宣言した。
この一連の騒動に嫌気がさしたルクレツィアは、1497年の6月、ドミニコ会修道院に篭ってしまう。しかし、そこでスペイン人従者のペドロ・カルデロンと恋に落ち、彼の子を妊娠してしまう。兄のチェーザレはペドロが口答えしたことに激怒し、彼を殺してしまった。
1498年3月6日、ルクレツィアは、インファンテ・ロマーノを出産。この子供は、父のアレクサンデル6世の子供の戸籍に入れられた。

次いで1498年ナポリアラゴン家のドン・アルフォンソ(元ナポリ王アルフォンソ2世 在位1494-1495年の子)と結婚する。二人の夫婦仲は良かったという。しかし1500年にアルフォンソは暗殺される。兄チェーザレ・ボルジアの指図とも言われる。当時の情勢から、次に手を結ぶ相手とリクレツィアを政略結婚をさせたいため、であったという(死別でなければ再婚できないため。例外として、寝室を一度も共にしていない、つまり性行為をしていない夫婦“白い結婚”だと無条件に離婚・再婚できる((最初の夫ジョヴァンニの場合は、これを狙ったものと思われる)))。

1501年フェラーラ領主エステ家アルフォンソ・デステ(1476-1534年、のちフェラーラ公アルフォンソ1世 在位1505-1534年)と3度目の結婚。
当時、フェラーラはルネサンスの文化が花開いた都市の一つであり、宮廷には各地から文学者や芸術家などが集まっており、ルクレツィアはサロンの女主人として優雅に振舞った。しかし、吝嗇家の傾向がある舅のエルコレ公と、浪費家のルクレツィアとは金銭感覚が合わず、彼女の大勢のスペイン人侍女達への手当てと、家計の費用を巡って議論になった。あまりにも家計に関する議論が絶えないため、彼女が聖クララ会修道院に篭もってしまったこともあるという。
詩人、ピエトロ・ベンボと浮名を流したこともあったらしい。しかし、この程度の浮気は夫の顔を潰さぬ程度なら当時の社交界では大目に見られていたようである。また、義姉のイザベラ・デステの夫マントヴァ侯フランチェスコ・ゴンザーガとも不倫関係にあり、このことを知ったイザベラは、ただ二人を軽蔑しただけだったという話もある。二人の不倫関係の真偽の程は定かではないが、ルクレツィアとゴンザーガが親しかったのは確からしく、1504年に幽閉されたチェーザレ釈放の協力を、ルクレツィアがゴンザーガに頼んだこともある。
1502年の9月5日にルクレツィアは妊娠したが、彼女の体調が悪いのを知ったチェーザレは、7月28日にミラノにいるフランス王を訪ねた後、変装して突然彼女に会いにやって来た。9月5日にルクレツィアは女児を死産。その間も、ずっとチェーザレはルクレツィアに付き添い、物語や冗談などで彼女をはげました。
1503年に父、1507年に兄チェーザレが死去。ルクレツィアは1519年、6月に未熟児の女児を出産したが産褥熱にかかり、6月22日に法王レオ10世に宛てて手紙を書いた後、6月24日に母子ともに死去。

ティツィアーノもルクレツィアの肖像画を残している。

ボルジア家には政敵が多く、アレクサンデル6世が教皇庁を腐敗堕落させたという声は根強い。ルクレツィアは父(または兄)と近親相姦という陰口も叩かれたが、根拠のある話ではない。
19世紀に作られた歌劇「ルクレツィア・ボルジア」があるほか、ルクレツィアを題材にした小説なども多い。