「アルテミス神殿」の版間の差分
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[[Image:ac artemisephesus.jpg|thumb|300px|[[トルコ共和国]] [[エフェソス]]にあるアルテミス神殿の風景。 残骸を積み上げ、柱がいくらか復元されているが、原形をとどめていない]] |
[[Image:ac artemisephesus.jpg|thumb|300px|[[トルコ共和国]] [[エフェソス]]にあるアルテミス神殿の風景。 残骸を積み上げ、柱がいくらか復元されているが、原形をとどめていない]] |
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'''アルテミス神殿''' ( Artemis_しんでん; [[ギリシア語]]: ''Artemision''; [[ラテン語]]: ''Artemisium'')は、[[紀元前550年]]ごろに[[アケメネス朝ペルシア]]統治下の[[エフェソス]](現在のトルコ)に完成した、[[アルテミス]]を奉った神殿である |
'''アルテミス神殿''' ( Artemis_しんでん; [[ギリシア語]]: ''Artemision''; [[ラテン語]]: ''Artemisium'')は、[[紀元前550年]]ごろに[[アケメネス朝ペルシア]]統治下の[[エフェソス]](現在のトルコ)に完成した、[[アルテミス]]を奉った神殿である。<br> |
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[[世界の七不思議]]のひとつに挙げられているが、現在は原形をとどめていない。 |
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この神殿は、[[リディア]]の[[クロイソス]]王によって始められた、120年に及ぶ大事業であった。世界の七不思議のリストの編纂者である[[シドン]]のアンティパトレスは次のように表現している。 |
この神殿は、[[リディア]]の[[クロイソス]]王によって始められた、120年に及ぶ大事業であった。世界の七不思議のリストの編纂者である[[シドン]]のアンティパトレスは次のように表現している。 |
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''私は戦車が通りうるほど広いバビロンの城壁を見、アルペイオス河畔のゼウス像を見た。空中庭園も、ヘリオスの巨像も、多くの人々の労働の結集たる大ピラミッドも、はたまたマウソロスの巨大な霊廟も見た。しかし、アルテミスの宮がはるか雲を突いてそびえているのを見たとき、その他の驚きはすっかり霞んでしまった。私は言った、「見よ、オリンポスを別にすれば、かつて日の下にこれほどのものはなかった」'' |
''私は戦車が通りうるほど広いバビロンの城壁を見、アルペイオス河畔のゼウス像を見た。空中庭園も、ヘリオスの巨像も、多くの人々の労働の結集たる大ピラミッドも、はたまたマウソロスの巨大な霊廟も見た。しかし、アルテミスの宮がはるか雲を突いてそびえているのを見たとき、その他の驚きはすっかり霞んでしまった。私は言った、「見よ、オリンポスを別にすれば、かつて日の下にこれほどのものはなかった」'' <br> |
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(アンティパトレス 『パラティン詩選集』[9巻58]) |
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同じく世界の七不思議のリストの編纂者である[[ビザンチウム]]のフィロンもまた次のように表現している。 |
同じく世界の七不思議のリストの編纂者である[[ビザンチウム]]のフィロンもまた次のように表現している。 |
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''エフェソスのアルテミス神殿は、神々のただひとつの家である。一目見れば、ここがただの場所ではないことがわかるだろう。ここでは、不死なる神の天上世界が地上に置かれているのである。巨人たち、すなわちアロエウスの子らは、天に登ろうとして山々を積み上げ、神殿ではなくオリンポスを築いたのだから。 '' |
''エフェソスのアルテミス神殿は、神々のただひとつの家である。一目見れば、ここがただの場所ではないことがわかるだろう。ここでは、不死なる神の天上世界が地上に置かれているのである。巨人たち、すなわちアロエウスの子らは、天に登ろうとして山々を積み上げ、神殿ではなくオリンポスを築いたのだから。 '' |
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==遺跡の発見== |
==遺跡の発見== |
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エフェソスのアルテミス神殿を発見したのは、イギリス人技師ジョン・ウッド率いる、[[大英博物館]]の考古学探検隊である。彼らは、[[1863年]]から7年にわたりエフェソスの発掘を続け、[[1869年]]12月ついに深さ4m半の泥の中から神殿跡を発見した。これは、[[シュリーマン]]が[[トロイア]]や[[ミケーネ]]を発掘する以前のことで、東方の古代遺跡発掘のさきがけとなった。彼らが発見した円柱の断片などは、現在[[大英博物館]]に所蔵されている。 |
エフェソスのアルテミス神殿を発見したのは、イギリス人技師ジョン・ウッド率いる、[[大英博物館]]の考古学探検隊である。<br> |
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彼らは、[[1863年]]から7年にわたりエフェソスの発掘を続け、[[1869年]]12月ついに深さ4m半の泥の中から神殿跡を発見した。これは、[[シュリーマン]]が[[トロイア]]や[[ミケーネ]]を発掘する以前のことで、東方の古代遺跡発掘のさきがけとなった。<br> |
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彼らが発見した円柱の断片などは、現在[[大英博物館]]に所蔵されている。 |
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その後の調査で、神殿は3つあり、古い神殿の跡に新しい神殿を建てていたことがわかった。その最も古いものは、[[紀元前700年]]ごろのものと推定されている。 |
その後の調査で、神殿は3つあり、古い神殿の跡に新しい神殿を建てていたことがわかった。その最も古いものは、[[紀元前700年]]ごろのものと推定されている。 |
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==所在地== |
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[[画像:Turkey_map.png|thumb|right|200px|トルコの地図]] |
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アルテミス神殿は、現在の[[トルコ共和国]]の港町[[イズミル]]から南に50kmほど離れたところにあった古代都市[[エフェソス]]に建っていた。 他の世界の七不思議と同様、アンティパトレスがこの神殿をリストに入れた理由は、その美しさや大きさのためではなく、むしろ、ギリシア世界の境界近くにあったためであった。その所在地から、ギリシア人に神秘と畏怖の念を与え、[[アレキサンダー大王]]の帝国の巨大さを強調したのである。 |
アルテミス神殿は、現在の[[トルコ共和国]]の港町[[イズミル]]から南に50kmほど離れたところにあった古代都市[[エフェソス]]に建っていた。 <br> |
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他の世界の七不思議と同様、アンティパトレスがこの神殿をリストに入れた理由は、その美しさや大きさのためではなく、むしろ、ギリシア世界の境界近くにあったためであった。その所在地から、ギリシア人に神秘と畏怖の念を与え、[[アレキサンダー大王]]の帝国の巨大さを強調したのである。 |
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==エフェソスのアルテミス== |
==エフェソスのアルテミス== |
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[[Image:ArtemisEphesus.jpg|thumb|right|150px| エフェソスのアルテミス像(18世紀に作られた複製)]] |
[[Image:ArtemisEphesus.jpg|thumb|right|150px| エフェソスのアルテミス像(18世紀に作られた複製)]] |
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[[アルテミス]]は[[ギリシア]]の女神である。[[アポロン]]と双子で、清純な女狩人として知られ、また、[[ティタン]]や[[セレネ]]に代わる月の女神である。 |
[[アルテミス]]は[[ギリシア]]の女神である。[[アポロン]]と双子で、清純な女狩人として知られ、また、[[ティタン]]や[[セレネ]]に代わる月の女神である。<br> |
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[[アテネ]]では、[[クレタ島]]の[[地母神]]の性格を受け継いだ[[オリンピア]]の女神の中で、[[アテナ]]がアルテミスよりもあがめられていた。<br> |
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一方、エフェソスでは、アルテミスは非常に敬われていた。例えば、月の1つはアルテミスの名前を冠しており、その月には丸1ヶ月祝祭が催された。信仰の対象はギリシア文化以前の古い偶像であった。その元となる偶像は木製で、ギリシアのアルテミスに見られる処女性とは対照的に、豊穣多産を象徴する多数の乳房を持っていた。そして、この女神の象徴は蜂であった。<br> |
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この偶像の複製や縮小したものが古代には出回り、現在も残っている。また、その偶像は、ギリシア本土のものとは違い、[[エジプト]]や近東に見られるように、体と足が先細りの柱のようになっており、そこから足首が出ている。<br> |
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また、[[エフェソス]]で鋳造されたコインでは、その多数の乳房を持った女神が、[[キュベレ]]の特徴として見られるように、城壁冠(胸壁形の金冠)をつけている。そして、蛇が絡み合ってできた柱、または[[ウロボロス]](自分の尾を自分の口に入れている蛇)を積み上げたものに手を置いている。 |
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このような習合の慣習は、[[オリンポス12神|オリンピアの神々]]をはじめとする国外の神々を吸収したもので、[[イオニア人]]の居住者たちが、エフェソスの女性とアルテミスを重ねたと考えるのは根拠が薄いのは明らかである。 |
このような習合の慣習は、[[オリンポス12神|オリンピアの神々]]をはじめとする国外の神々を吸収したもので、[[イオニア人]]の居住者たちが、エフェソスの女性とアルテミスを重ねたと考えるのは根拠が薄いのは明らかである。 |
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==歴史== |
==歴史== |
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[[Image:Temple_of_artemis.jpg|left|thumb|300px|16世紀に活躍した画家ヒームスカーク([[:en:Marten Jacobszoon Heemskerk van Veen|英語版参照]])の版画に見るアルテミス神殿の想像図]] |
[[Image:Temple_of_artemis.jpg|left|thumb|300px|16世紀に活躍した画家ヒームスカーク([[:en:Marten Jacobszoon Heemskerk van Veen|英語版参照]])の版画に見るアルテミス神殿の想像図]] |
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エフェソスの聖なる場所は、アルテミス神殿よりずっと古くにあった。ギリシア人旅行家パウサニアスは、[[アルテミス]]の社はとても古くからあったと考えた。彼は、それは[[イオニア人]]の移住より何年も前にできており、[[アポロン]]の神託神殿よりも古いと確信を持って主張した。また彼によれば、イオニア人以前のエフェソスの住人は[[リディア]]人などであったという。 |
エフェソスの聖なる場所は、アルテミス神殿よりずっと古くにあった。<br> |
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ギリシア人旅行家パウサニアスは、[[アルテミス]]の社はとても古くからあったと考えた。彼は、それは[[イオニア人]]の移住より何年も前にできており、[[アポロン]]の神託神殿よりも古いと確信を持って主張した。また彼によれば、イオニア人以前のエフェソスの住人は[[リディア]]人などであったという。 |
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この神殿は、紀元前550年頃に、クレタの建築家ケルシプロンと彼の息子メタゲネスによって設計され建築された。この原型となる建物は、裕福な[[リディア]]王[[クロエサス]]の負担で建てられた。[[プリニウス]]によれば、将来起こる地震を警戒して、建設地に湿地が選ばれたという。このような場所に巨大な基礎を築くことはできないので、まず地下に踏み潰した木炭を敷き、さらに羊毛を敷きこんだ。こうして完成した神殿は旅行者の注目の的となり、商人・王・観光客が訪れ、彼らの多くは宝石や様々な品物を奉納してアルテミスに敬意を表した。そして、その壮麗さは多くの礼拝者もひきつけ、アルテミス崇拝を形成した。 |
この神殿は、紀元前550年頃に、クレタの建築家ケルシプロンと彼の息子メタゲネスによって設計され建築された。<br> |
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この原型となる建物は、裕福な[[リディア]]王[[クロエサス]]の負担で建てられた。[[プリニウス]]によれば、将来起こる地震を警戒して、建設地に湿地が選ばれたという。このような場所に巨大な基礎を築くことはできないので、まず地下に踏み潰した木炭を敷き、さらに羊毛を敷きこんだ。<br> |
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こうして完成した神殿は旅行者の注目の的となり、商人・王・観光客が訪れ、彼らの多くは宝石や様々な品物を奉納してアルテミスに敬意を表した。そして、その壮麗さは多くの礼拝者もひきつけ、アルテミス崇拝を形成した。 |
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この神殿は、避難所としても知られ、犯罪者を含め、多くの人々が身の安全のために逃げ込んだ。彼らは、アルテミスの保護下にあるとみなされ、決して捕まらなかった。また、[[アマゾネス]]が[[ヘラクレス]]と[[ディオニュソス]]から逃げて避難したという神話もある。 |
この神殿は、避難所としても知られ、犯罪者を含め、多くの人々が身の安全のために逃げ込んだ。彼らは、アルテミスの保護下にあるとみなされ、決して捕まらなかった。また、[[アマゾネス]]が[[ヘラクレス]]と[[ディオニュソス]]から逃げて避難したという神話もある。 |
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エフェソスのアルテミス神殿は、[[紀元前356年]]7月21日に、ヘロストラトスによる放火で破壊された。言い伝えによれば彼の動機は、どんな犠牲を払っても名声を得たかったということである。このことから、「ヘロストラトスの名誉」という言葉まで生まれた。これは、つまらないことや犯罪行為によって、自分の名前を有名にしようとする人のことを表す。 |
エフェソスのアルテミス神殿は、[[紀元前356年]]7月21日に、[[ヘロストラトス]]による放火で破壊された。言い伝えによれば彼の動機は、どんな犠牲を払っても名声を得たかったということである。このことから、「ヘロストラトスの名誉」という言葉まで生まれた。<br> |
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これは、つまらないことや犯罪行為によって、自分の名前を有名にしようとする人のことを表す。 |
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「ある男が、最も美しい建造物を破壊することで自分の名前を世界中の広めようと、エフェソスのアルテミス神殿に放火する計画を考えた」 |
「ある男が、最も美しい建造物を破壊することで自分の名前を世界中の広めようと、エフェソスのアルテミス神殿に放火する計画を考えた」 |
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事件に憤慨したエフェソスの人々は、ヘロストラトスの名前を決して残さないことを共同決定した([[ストラボン]]が後にこの名を書きとめたため、現在我々がその名を知ることとなった)。そして、彼らは、以前よりもはるかに立派な神殿を造ろうと考えた。 |
事件に憤慨したエフェソスの人々は、ヘロストラトスの名前を決して残さないことを共同決定した([[ストラボン]]が後にこの名を書きとめたため、現在我々がその名を知ることとなった)。そして、彼らは、以前よりもはるかに立派な神殿を造ろうと考えた。 |
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まさにこの事件と同じ夜、[[アレキサンダー大王]]は生まれた。[[プルタルコス]]は、アルテミスはアレキサンダーの出産のことで頭がいっぱいで、燃えている神殿を救えなかったと表現している。アレキサンダーは後に神殿の再建費用を支払うと申し出たが、エフェソスの人々がこれを拒否した。神が別の神を称えるのは適当ではないという返事だったと伝えられている。結局、アレキサンダーの死後の[[紀元前323年]]に神殿は再建された。 |
まさにこの事件と同じ夜、[[アレキサンダー大王]]は生まれた。<br> |
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[[プルタルコス]]は、アルテミスはアレキサンダーの出産のことで頭がいっぱいで、燃えている神殿を救えなかったと表現している。アレキサンダーは後に神殿の再建費用を支払うと申し出たが、エフェソスの人々がこれを拒否した。神が別の神を称えるのは適当ではないという返事だったと伝えられている。<br> |
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結局、アレキサンダーの死後の[[紀元前323年]]に神殿は再建された。 |
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ローマ皇帝[[ガリエヌス]]の治世の[[262年]]、再建された神殿は、[[ゴート人]]の襲撃の中で略奪・破壊された。「ゴート人の指導者たちは、船を操り、ヘレスポント海峡(現在の[[ダーダネルス海峡]])を越えてアジアにやってきた。多くの都市が破壊され、有名なアルテミス神殿に火をつけた」 |
ローマ皇帝[[ガリエヌス]]の治世の[[262年]]、再建された神殿は、[[ゴート人]]の襲撃の中で略奪・破壊された。「ゴート人の指導者たちは、船を操り、ヘレスポント海峡(現在の[[ダーダネルス海峡]])を越えてアジアにやってきた。多くの都市が破壊され、有名なアルテミス神殿に火をつけた」(Jordanes in Gtica:xx.107)と伝えられている。 |
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それから200年の間に、エフェソスの人々の大多数は[[キリスト教]]に改宗し、アルテミス神殿はその魅力を失った。こうして、キリスト教徒によって神殿は完全に破壊されてしまった。その残骸の石は他の建物に使われ、神殿の跡地にはキリスト教の教会が建った。 |
それから200年の間に、エフェソスの人々の大多数は[[キリスト教]]に改宗し、アルテミス神殿はその魅力を失った。<br> |
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こうして、キリスト教徒によって神殿は完全に破壊されてしまった。その残骸の石は他の建物に使われ、神殿の跡地にはキリスト教の教会が建った。 |
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アルテミス神殿について現存する古代の資料は以下のとおり。 |
アルテミス神殿について現存する古代の資料は以下のとおり。 |
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*プリニウスの「Natural History」 [http://penelope.uchicago.edu/Thayer/L/Roman/Texts/Pliny_the_Elder/36*.html#95 参照] |
*プリニウスの「Natural History」 [http://penelope.uchicago.edu/Thayer/L/Roman/Texts/Pliny_the_Elder/36*.html#95 参照] |
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* Pomponius Mela [http://ourworld-top.cs.com/latintexts/m117.htm 参照] |
* Pomponius Mela [http://ourworld-top.cs.com/latintexts/m117.htm 参照] |
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*[[プルタルコス]]の「アレキサンダーの生涯」 [http://penelope.uchicago.edu/Thayer/E/Roman/Texts/Plutarch/Lives/Alexander*/3.html#3.5 参照] |
*[[プルタルコス]]の「アレキサンダーの生涯」 [http://penelope.uchicago.edu/Thayer/E/Roman/Texts/Plutarch/Lives/Alexander*/3.html#3.5 参照](神殿の焼失についての記述がある) |
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==建築と美術== |
==建築と美術== |
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異なる記述も様々あるが、[[プリニウス]]によれば、神殿は、広さが縦115m、横55mで、高さ18mのイオニア式の柱127本からなっていた。<br> |
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神殿の内部は大理石の板石で飾られ、大きな入り口プロナオス・主要な広間ツェル・後方の小部屋オピトドムから構成された。<br> |
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ツェルには高さ15メートルのアルテミス像が置かれた。その像は木製で、顔と手足の先以外は黄金や宝石で飾られていた。 |
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異なる記述も様々あるが、[[プリニウス]]によれば、神殿は、広さが縦115m、横55mで、高さ18mのイオニア式の柱127本からなっていた。神殿の内部は大理石の板石で飾られ、大きな入り口プロナオス・主要な広間ツェル・後方の小部屋オピトドムから構成された。ツェルには高さ15メートルのアルテミス像が置かれた。その像は木製で、顔と手足の先以外は黄金や宝石で飾られていた。 |
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彼らの作った彫刻の多くは、[[エフェソス]]を築いたといわれている[[アマゾネス]]を表すものであった。 |
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また、プリニウスは、[[マウソロスの霊廟]]を手がけたスコパスが神殿の柱に浮き彫りを施したと述べている。 |
また、プリニウスは、[[マウソロスの霊廟]]を手がけたスコパスが神殿の柱に浮き彫りを施したと述べている。 |
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==信仰と影響== |
==信仰と影響== |
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アルテミス神殿は、[[小アジア]]中の商人や旅人が見られる、経済的に活発な地域に位置していた。このため、この神殿は様々な信念の影響を受け、信念の異なるあらゆる人々が信仰の象徴とみなした。<br> |
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エフェソスの人々は[[キュベレ]]を崇拝し、様々な信念をアルテミス崇拝に融合していった。こうして[[アルテミス]]に融合した[[キュベレ]]は、ローマの神で相当する[[ディアナ]]とは対照的な女神であった。<br> |
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アルテミス信仰は、はるか遠方の地からも大量の崇拝者をひきつけた。彼らは皆、神殿に集まり、[[アルテミス]]を崇拝したのだった。 |
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==参考文献== |
==参考文献== |
2006年6月15日 (木) 11:59時点における版
アルテミス神殿 ( Artemis_しんでん; ギリシア語: Artemision; ラテン語: Artemisium)は、紀元前550年ごろにアケメネス朝ペルシア統治下のエフェソス(現在のトルコ)に完成した、アルテミスを奉った神殿である。
世界の七不思議のひとつに挙げられているが、現在は原形をとどめていない。
この神殿は、リディアのクロイソス王によって始められた、120年に及ぶ大事業であった。世界の七不思議のリストの編纂者であるシドンのアンティパトレスは次のように表現している。
私は戦車が通りうるほど広いバビロンの城壁を見、アルペイオス河畔のゼウス像を見た。空中庭園も、ヘリオスの巨像も、多くの人々の労働の結集たる大ピラミッドも、はたまたマウソロスの巨大な霊廟も見た。しかし、アルテミスの宮がはるか雲を突いてそびえているのを見たとき、その他の驚きはすっかり霞んでしまった。私は言った、「見よ、オリンポスを別にすれば、かつて日の下にこれほどのものはなかった」
(アンティパトレス 『パラティン詩選集』[9巻58])
同じく世界の七不思議のリストの編纂者であるビザンチウムのフィロンもまた次のように表現している。
私は、バビロンの城壁と空中庭園、オリンピアのゼウス像、ロードス島の巨像、大ピラミッドの偉業、そしてマウソロスの霊廟までも見た。しかし、雲にそびえるエフェソスのアルテミス神殿を見たとき、ほかの不思議はすべて陰ってしまった。
エフェソスのアルテミス神殿は、神々のただひとつの家である。一目見れば、ここがただの場所ではないことがわかるだろう。ここでは、不死なる神の天上世界が地上に置かれているのである。巨人たち、すなわちアロエウスの子らは、天に登ろうとして山々を積み上げ、神殿ではなくオリンポスを築いたのだから。
遺跡の発見
エフェソスのアルテミス神殿を発見したのは、イギリス人技師ジョン・ウッド率いる、大英博物館の考古学探検隊である。
彼らは、1863年から7年にわたりエフェソスの発掘を続け、1869年12月ついに深さ4m半の泥の中から神殿跡を発見した。これは、シュリーマンがトロイアやミケーネを発掘する以前のことで、東方の古代遺跡発掘のさきがけとなった。
彼らが発見した円柱の断片などは、現在大英博物館に所蔵されている。
その後の調査で、神殿は3つあり、古い神殿の跡に新しい神殿を建てていたことがわかった。その最も古いものは、紀元前700年ごろのものと推定されている。
所在地
アルテミス神殿は、現在のトルコ共和国の港町イズミルから南に50kmほど離れたところにあった古代都市エフェソスに建っていた。
他の世界の七不思議と同様、アンティパトレスがこの神殿をリストに入れた理由は、その美しさや大きさのためではなく、むしろ、ギリシア世界の境界近くにあったためであった。その所在地から、ギリシア人に神秘と畏怖の念を与え、アレキサンダー大王の帝国の巨大さを強調したのである。
エフェソスのアルテミス
アルテミスはギリシアの女神である。アポロンと双子で、清純な女狩人として知られ、また、ティタンやセレネに代わる月の女神である。
アテネでは、クレタ島の地母神の性格を受け継いだオリンピアの女神の中で、アテナがアルテミスよりもあがめられていた。
一方、エフェソスでは、アルテミスは非常に敬われていた。例えば、月の1つはアルテミスの名前を冠しており、その月には丸1ヶ月祝祭が催された。信仰の対象はギリシア文化以前の古い偶像であった。その元となる偶像は木製で、ギリシアのアルテミスに見られる処女性とは対照的に、豊穣多産を象徴する多数の乳房を持っていた。そして、この女神の象徴は蜂であった。
この偶像の複製や縮小したものが古代には出回り、現在も残っている。また、その偶像は、ギリシア本土のものとは違い、エジプトや近東に見られるように、体と足が先細りの柱のようになっており、そこから足首が出ている。
また、エフェソスで鋳造されたコインでは、その多数の乳房を持った女神が、キュベレの特徴として見られるように、城壁冠(胸壁形の金冠)をつけている。そして、蛇が絡み合ってできた柱、またはウロボロス(自分の尾を自分の口に入れている蛇)を積み上げたものに手を置いている。
このような習合の慣習は、オリンピアの神々をはじめとする国外の神々を吸収したもので、イオニア人の居住者たちが、エフェソスの女性とアルテミスを重ねたと考えるのは根拠が薄いのは明らかである。
歴史
エフェソスの聖なる場所は、アルテミス神殿よりずっと古くにあった。
ギリシア人旅行家パウサニアスは、アルテミスの社はとても古くからあったと考えた。彼は、それはイオニア人の移住より何年も前にできており、アポロンの神託神殿よりも古いと確信を持って主張した。また彼によれば、イオニア人以前のエフェソスの住人はリディア人などであったという。
この神殿は、紀元前550年頃に、クレタの建築家ケルシプロンと彼の息子メタゲネスによって設計され建築された。
この原型となる建物は、裕福なリディア王クロエサスの負担で建てられた。プリニウスによれば、将来起こる地震を警戒して、建設地に湿地が選ばれたという。このような場所に巨大な基礎を築くことはできないので、まず地下に踏み潰した木炭を敷き、さらに羊毛を敷きこんだ。
こうして完成した神殿は旅行者の注目の的となり、商人・王・観光客が訪れ、彼らの多くは宝石や様々な品物を奉納してアルテミスに敬意を表した。そして、その壮麗さは多くの礼拝者もひきつけ、アルテミス崇拝を形成した。
この神殿は、避難所としても知られ、犯罪者を含め、多くの人々が身の安全のために逃げ込んだ。彼らは、アルテミスの保護下にあるとみなされ、決して捕まらなかった。また、アマゾネスがヘラクレスとディオニュソスから逃げて避難したという神話もある。
エフェソスのアルテミス神殿は、紀元前356年7月21日に、ヘロストラトスによる放火で破壊された。言い伝えによれば彼の動機は、どんな犠牲を払っても名声を得たかったということである。このことから、「ヘロストラトスの名誉」という言葉まで生まれた。
これは、つまらないことや犯罪行為によって、自分の名前を有名にしようとする人のことを表す。
「ある男が、最も美しい建造物を破壊することで自分の名前を世界中の広めようと、エフェソスのアルテミス神殿に放火する計画を考えた」
事件に憤慨したエフェソスの人々は、ヘロストラトスの名前を決して残さないことを共同決定した(ストラボンが後にこの名を書きとめたため、現在我々がその名を知ることとなった)。そして、彼らは、以前よりもはるかに立派な神殿を造ろうと考えた。
まさにこの事件と同じ夜、アレキサンダー大王は生まれた。
プルタルコスは、アルテミスはアレキサンダーの出産のことで頭がいっぱいで、燃えている神殿を救えなかったと表現している。アレキサンダーは後に神殿の再建費用を支払うと申し出たが、エフェソスの人々がこれを拒否した。神が別の神を称えるのは適当ではないという返事だったと伝えられている。
結局、アレキサンダーの死後の紀元前323年に神殿は再建された。
ローマ皇帝ガリエヌスの治世の262年、再建された神殿は、ゴート人の襲撃の中で略奪・破壊された。「ゴート人の指導者たちは、船を操り、ヘレスポント海峡(現在のダーダネルス海峡)を越えてアジアにやってきた。多くの都市が破壊され、有名なアルテミス神殿に火をつけた」(Jordanes in Gtica:xx.107)と伝えられている。
それから200年の間に、エフェソスの人々の大多数はキリスト教に改宗し、アルテミス神殿はその魅力を失った。
こうして、キリスト教徒によって神殿は完全に破壊されてしまった。その残骸の石は他の建物に使われ、神殿の跡地にはキリスト教の教会が建った。
アルテミス神殿について現存する古代の資料は以下のとおり。
建築と美術
異なる記述も様々あるが、プリニウスによれば、神殿は、広さが縦115m、横55mで、高さ18mのイオニア式の柱127本からなっていた。
神殿の内部は大理石の板石で飾られ、大きな入り口プロナオス・主要な広間ツェル・後方の小部屋オピトドムから構成された。
ツェルには高さ15メートルのアルテミス像が置かれた。その像は木製で、顔と手足の先以外は黄金や宝石で飾られていた。
アルテミス神殿は多くのすばらしい芸術品を所蔵していた。絵画や、金銀に彩られた柱、そしてフェイディアスなど高名な彫刻家たちの作品が神殿を飾っていた。彫刻家たちはしばしば優れた彫刻を作ることで競争したという。
彼らの作った彫刻の多くは、エフェソスを築いたといわれているアマゾネスを表すものであった。
また、プリニウスは、マウソロスの霊廟を手がけたスコパスが神殿の柱に浮き彫りを施したと述べている。
信仰と影響
アルテミス神殿は、小アジア中の商人や旅人が見られる、経済的に活発な地域に位置していた。このため、この神殿は様々な信念の影響を受け、信念の異なるあらゆる人々が信仰の象徴とみなした。
エフェソスの人々はキュベレを崇拝し、様々な信念をアルテミス崇拝に融合していった。こうしてアルテミスに融合したキュベレは、ローマの神で相当するディアナとは対照的な女神であった。
アルテミス信仰は、はるか遠方の地からも大量の崇拝者をひきつけた。彼らは皆、神殿に集まり、アルテミスを崇拝したのだった。
参考文献
- 古代世界の七不思議 (A・ネイハルト、N・シーショワ共著、中山一郎訳) 大陸書房
- 世界の七不思議 (ジョン・ローマー、エリザベス・ローマー共著、安原和見訳) 河出書房新社
en:Temple of Artemis( 08:01, 16 December 2005)より翻訳加筆改変