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この頃、[[イタリア王国|イタリア]]の[[ベニート・ムッソリーニ|ムッソリーニ]]はナチス及びヒトラーに対して好意を抱いておらず、同じ[[カトリック教会|カトリック]]の[[保守的]]価値観を持つ盟友としてドルフースを強く支持した。ドルフースは6月にナチスの活動を禁止し、翌年2月には社会民主党の活動を禁止した。これに反発する社会民主党は武装蜂起を試みたが、ただちに鎮圧された(「1934年の内乱」または「2月事件」「[[2月内乱]]」という)。 |
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1933年9月、ドルフースは政権を支援するための傘下グループ{{仮リンク|祖国戦線 (オーストリア)|de|Vaterländische Front|label=祖国戦線}}を組織し、キリスト教社会党と民族主義準軍事的グループ[[護国団]]を統合した。彼によって組織され、[[1938年]]まで続いた軍事政権は、しばしば[[オーストロファシズム]]と呼ばれた。 |
1933年9月、ドルフースは政権を支援するための傘下グループ{{仮リンク|祖国戦線 (オーストリア)|de|Vaterländische Front|label=祖国戦線}}を組織し、キリスト教社会党と民族主義準軍事的グループ[[護国団]]を統合した。彼によって組織され、[[1938年]]まで続いた軍事政権は、しばしば[[オーストロファシズム]]と呼ばれた。 |
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[[1934年]][[7月25日]]、8名のオーストリア・ナチス党員が首相官邸に押し入ってドルフースを射殺し、[[クーデター]]を試みた。それは[[アンシュルス|オーストリアのドイツへの併合]]の前兆だった。実行犯は降伏し、処刑された。[[クルト・シュシュニック]]がドルフースに続いて新しい独裁者となった。 |
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* [[キリスト教社会党]] |
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2016年10月24日 (月) 04:43時点における版
エンゲルベルト・ドルフース Engelbert Dollfuß | |
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生年月日 | 1892年10月4日 |
出生地 | オーストリア=ハンガリー帝国、テクシング |
没年月日 | 1934年7月25日(41歳没) |
死没地 | オーストリア、ウィーン |
出身校 |
ウィーン大学 ベルリン大学 |
所属政党 | キリスト教社会党 |
第14代連邦首相 | |
在任期間 | 1932年5月20日 - 1934年7月25日 |
大統領 | ヴィルヘルム・ミクラス |
エンゲルベルト・ドルフース(Engelbert Dollfuß、 1892年10月4日 - 1934年7月25日)は、オーストリア第一共和国の政治家、独裁者。
首相就任まで
ドルフースはオーストリアのテクシング(現在のメルク郡テクシングタール)で生まれた。幼年期は神学校で学び、その後ウィーン大学で法律を専攻、続いてベルリン大学で経済学を学んだ。第一次世界大戦の間、彼は徴兵に合格するには身長が足りなかったが、結局徴兵され1918年にはアルプスに送られ、間もなく戦時捕虜となる。戦後、彼は農務省で働き、農民協会の総裁を務めた。1927年にニーダーエスターライヒ州の農業議会の議長となる。1930年にはキリスト教社会党のメンバーとなり、連邦鉄道の総裁に任命された。同党の指導的政治家であった元首相イグナーツ・ザイペルからの信任を得て、翌年には農林大臣に任命された。1932年5月20日に右翼の連立政権の首相に就任した。
オーストロ・ファシズム
首相就任後のドルフースは、世界恐慌によって引き起こされた問題に取り組むこととなった。しかし議会において彼は多数派とはなり得なかった。デフレの政策は支持されず、議会に於いてキリスト教社会党と対峙する2大政党の一つオーストリア社会民主党との対立は深まった。ドルフースは1933年3月に議会を停止し法令によって管理した。彼にはさらに、オーストリアで民主主義を保留する別の理由があった。ナチスである。アドルフ・ヒトラーが今やドイツの首相となり、将来のオーストリアの選挙でオーストリア・ナチスが議会の多数を占め、オーストリアが国家として存続できなくなる恐れがあった。
この頃、イタリアのムッソリーニはナチス及びヒトラーに対して好意を抱いておらず、同じカトリックの保守的価値観を持つ盟友としてドルフースを強く支持した。ドルフースは6月にナチスの活動を禁止し、翌年2月には社会民主党の活動を禁止した。これに反発する社会民主党は武装蜂起を試みたが、ただちに鎮圧された(「1934年の内乱」または「2月事件」「2月内乱」という)。
1934年4月30日、ドルフースは新憲法を公布する。「職業共同体」と呼ばれる7つの職能代表からなる各評議会組織が議会に代わって組織され、それは政府に対する補助機関と位置づけられた(一種のコーポラティズム)。これによって政府は事実上立法・行政の2権を掌握して、イタリアのファシズムを参考にしつつも、カトリックと中世ドイツ的な伝統に支えられた新しい国家体制を打ち立てた。国名もオーストリア連邦国 (Bundesstaat Österreich) と改称された。
1933年9月、ドルフースは政権を支援するための傘下グループ祖国戦線を組織し、キリスト教社会党と民族主義準軍事的グループ護国団を統合した。彼によって組織され、1938年まで続いた軍事政権は、しばしばオーストロファシズムと呼ばれた。
暗殺
1934年7月25日、8名のオーストリア・ナチス党員が首相官邸に押し入ってドルフースを射殺し、クーデターを試みた。それはオーストリアのドイツへの併合の前兆だった。実行犯は降伏し、処刑された。クルト・シュシュニックがドルフースに続いて新しい独裁者となった。
関連項目
公職 | ||
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先代 カール・ブレシュ |
オーストリア連邦首相 第14代:1932年 - 1934年 |
次代 クルト・シュシュニック |