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2016年10月4日 (火) 19:16時点における版

マルハール・ラーオ・ガーイクワード
Malhar Rao Gaekwad
ガーイクワード家当主
ヴァドーダラー藩王
マルハール・ラーオ・ガーイクワード
在位 1870年 - 1875年
戴冠式 1871年7月5日
別号 マハーラージャ

出生 1831年
ヴァドーダラー
死去 1882年
マドラス
家名 ガーイクワード家
父親 サヤージー・ラーオ・ガーイクワード2世
宗教 ヒンドゥー教
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マルハール・ラーオ・ガーイクワード(Malhar Rao Gaekwad, 1831年 - 1882年)は、西インドグジャラート地方ガーイクワード家の当主およびヴァドーダラー藩王国の君主(在位:1870年 - 1875年)。

生涯

1831年サヤージー・ラーオ・ガーイクワード2世の六男として生まれた[1]

1870年11月28日、兄のカンデー・ラーオ・ガーイクワードが死亡し、マルハール・ラーオが当主位および藩王位を継承した[2]

しかし、1875年1月13日にマルハール・ラーオはイギリスの駐在官を毒殺しようとしたとして、同年4月19日に失政と専横を理由として廃位された。同月22日に彼はマドラスへと追放された[3]

1882年、マルハール・ラーオはマドラスで死亡した[4]。その死に関しては不明瞭で、月日すらわかっていない。

出典・脚注

関連項目