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当時のムガル帝国はすでにデリー周辺を支配するだけの小勢力となり、シク教国やマラータ族、ラージプート族を制圧して[[イギリス東インド会社]]の勢力も増大していた。そんな中、宮廷では[[ウルドゥー語]]を用いた文芸活動が流行り、ムガル皇帝たちもまたウルドゥー語で詩を書くことにはまっていた。アクバル・シャーも例外ではなく、政治を諦め、一地方勢力としてそこに落ち着き、詩作にふけって日々を送ったとされる。
当時のムガル帝国はすでにデリー周辺を支配するだけの小勢力となり、シク教国やマラータ族、ラージプート族を制圧して[[イギリス東インド会社]]の勢力も増大していた。そんな中、宮廷では[[ウルドゥー語]]を用いた文芸活動が流行り、ムガル皇帝たちもまたウルドゥー語で詩を書くことにはまっていた。アクバル・シャーも例外ではなく、政治を諦め、一地方勢力としてそこに落ち着き、詩作にふけって日々を送ったとされる。


ムガル帝国の存在が形骸化する一方で、イギリス東インド会社は確実に勢力を増大させ、[[1818年]]には帝国にとって長きにわたり目の上のたんこぶとなっていた[[マラータ王国]]を滅ぼした。いよいよムガル帝国は帝国自体にとって、ひいてはインド民族全体にとっての致命傷を負ったことになる。ヒンドゥーの勢力と列強の勢力が入り乱れた、帝国の権威を回復する術も見当らず1837年にアクバル・シャーは77歳で死去した、まさかその20年後に王朝が「あのイギリスの力によって」滅ぼされるとは思ってもなかったことろう
ムガル帝国の存在が形骸化する一方で、イギリス東インド会社は確実に勢力を増大させ、[[1818年]]には帝国にとって長きにわたり目の上のたんこぶとなっていた[[マラータ王国]]を滅ぼした。20年後にはムガル帝国体に攻撃矛先が向けられることになる。ヒンドゥーの勢力と列強の勢力が入り乱れた[[1837年]]、帝国の権威を回復する術も見当らず、77歳で死亡。子の[[ハードゥル・シャー2世]]がそのまま引き継いだ。


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2006年6月1日 (木) 04:42時点における版

アクバル・シャー2世Akbar Shah II, 1760年 - 1837年)は、ムガル帝国の第16代皇帝。1806年父シャー・アーラム2世の死をうけて即位し、1837年死去するまで皇位にあった。Mirza Akbarともよばれる。

イギリスの侵略とムガル宮廷

当時のムガル帝国はすでにデリー周辺を支配するだけの小勢力となり、シク教国やマラータ族、ラージプート族を制圧してイギリス東インド会社の勢力も増大していた。そんな中、宮廷ではウルドゥー語を用いた文芸活動が流行り、ムガル皇帝たちもまたウルドゥー語で詩を書くことにはまっていた。アクバル・シャーも例外ではなく、政治を諦め、一地方勢力としてそこに落ち着き、詩作にふけって日々を送ったとされる。

ムガル帝国の存在が形骸化する一方で、イギリス東インド会社は確実に勢力を増大させ、1818年には帝国にとって長きにわたり目の上のたんこぶとなっていたマラータ王国を滅ぼした。20年後にはムガル帝国本体に攻撃の矛先が向けられることになる。ヒンドゥーの勢力と列強の勢力が入り乱れた1837年、帝国の権威を回復する術も見当らず、77歳で死亡。子のバハードゥル・シャー2世がそのまま引き継いだ。

前の皇帝:
15代目:父 シャー・アーラム2世
ムガル皇帝 次の皇帝:
17代目:子 バハードゥル・シャー2世