「俵坂番所跡 (佐賀県嬉野市)」の版間の差分

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[[俵坂関所跡]](たわらざかせきしょあと)[[俵坂関所跡]]、[[佐賀県]][[嬉野市]]にある江戸時代の[[関所]]。藩の管轄(口留守番所)のため、正しくは俵坂口留守番所である。戦国時代にすでに関所としての機能があったと伝えられる。
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江戸時代になると[[長崎街道]]として佐賀、大村両藩の藩境の要地となり、特にキリシタンの取締りが厳しかった。敷地面積二百余坪、建物は間口四間(七.二m)奥行き七間(三.六m)の構えで侍一名、足軽九名が監視にあたって、通路には門柱が建てられ、その両脇には竹の柵が巡らされていた、[[明治維新]]を向かえ明治四年(1872)の[[廃藩置県]]によって廃止された。
江戸時代になると[[長崎街道]]として佐賀、大村両藩の藩境の要地となり、特にキリシタンの取締りが厳しかった。敷地面積二百余坪、建物は間口四間(七.二m)奥行き七間(三.六m)の構えで侍一名、足軽九名が監視にあたって、通路には門柱が建てられ、その両脇には竹の柵が巡らされていた、[[明治維新]]を向かえ明治四年(1872)の[[廃藩置県]]によって廃止された。
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== 脚注・出典 ==
== 脚注・出典 ==
嬉野市教育委員会
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[[Category:関所]]
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2016年3月2日 (水) 15:41時点における版

俵坂関所跡

俵坂関所跡(たわらざかせきしょあと)は、佐賀県嬉野市にある江戸時代の関所。藩の管轄(口留守番所)のため、正しくは俵坂口留守番所である。戦国時代にすでに関所としての機能があったと伝えられる。

江戸時代になると長崎街道として佐賀、大村両藩の藩境の要地となり、特にキリシタンの取締りが厳しかった。敷地面積二百余坪、建物は間口四間(七.二m)奥行き七間(三.六m)の構えで侍一名、足軽九名が監視にあたって、通路には門柱が建てられ、その両脇には竹の柵が巡らされていた、明治維新を向かえ明治四年(1872)の廃藩置県によって廃止された。

脚注・出典

嬉野市教育委員会