「鎌津田甚六」の版間の差分
削除された内容 追加された内容
編集の要約なし |
編集の要約なし |
||
2行目: | 2行目: | ||
== 経歴 == |
== 経歴 == |
||
甚六は陸奥釜津田村([[岩手県]][[岩泉町]])出身の金山師と云われるが、陸奥飯岡村(同県[[盛岡市]])という説もあ |
甚六は陸奥釜津田村([[岩手県]][[岩泉町]])出身の金山師と云われるが、陸奥飯岡村(同県[[盛岡市]])という説もありはっきりしない。 |
||
慶長4年、[[盛岡城]]の築城に際し、甚六は[[南部藩]]主の[[南部信直]]から鹿妻、太田地域の荒地を水田に変えるための鹿妻穴堰の開削を命じられた。しかし当時の[[雫石川]]は暴れ川として有名であり取水は困難であったが、甚六は調査の末、雫石川に突き出た剣長根の岩山に穴口を掘ることを決めた。剣長根は珪化を受けた硬い凝灰岩からなり<ref>蒲田理,2015,盛岡市上太田穴口鹿妻穴堰近傍の金鉱について,岩手の地学,40-46</ref><ref>蒲田理『盛岡市上太田穴口鹿妻穴堰近傍の金鉱について』2015年。</ref>、掘削工事は難航したが、鎌津田甚六は鉱山の採掘技術をもって開削したとされる。 |
慶長4年、[[盛岡城]]の築城に際し、甚六は[[南部藩]]主の[[南部信直]]から鹿妻、太田地域の荒地を水田に変えるための鹿妻穴堰の開削を命じられた。しかし当時の[[雫石川]]は暴れ川として有名であり取水は困難であったが、甚六は調査の末、雫石川に突き出た剣長根の岩山に穴口を掘ることを決めた。剣長根は珪化を受けた硬い凝灰岩からなり<ref>蒲田理,2015,盛岡市上太田穴口鹿妻穴堰近傍の金鉱について,岩手の地学,40-46</ref><ref>蒲田理『盛岡市上太田穴口鹿妻穴堰近傍の金鉱について』2015年。</ref>、掘削工事は難航したが、鎌津田甚六は鉱山の採掘技術をもって開削したとされる。 |
2015年7月2日 (木) 15:13時点における版
鎌津田 甚六(かまつだ じんろく、生没年不詳)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての鉱山師・治水家である。慶長年間に南部藩の大事業であった鹿妻穴堰(岩手県盛岡市上太田に所在)を完成させたことで知られる。
経歴
甚六は陸奥釜津田村(岩手県岩泉町)出身の金山師と云われるが、陸奥飯岡村(同県盛岡市)という説もありはっきりしない。
慶長4年、盛岡城の築城に際し、甚六は南部藩主の南部信直から鹿妻、太田地域の荒地を水田に変えるための鹿妻穴堰の開削を命じられた。しかし当時の雫石川は暴れ川として有名であり取水は困難であったが、甚六は調査の末、雫石川に突き出た剣長根の岩山に穴口を掘ることを決めた。剣長根は珪化を受けた硬い凝灰岩からなり[1][2]、掘削工事は難航したが、鎌津田甚六は鉱山の採掘技術をもって開削したとされる。
また、歓進僧・陸坊が鹿妻穴堰のある穴口付近に鉱脈があると宣伝して歩いたため、甚六は金の採鉱と開田を兼ねての穴堰掘削を南部藩に提議したと伝わる[3]。明治2年に盛岡藩が新政府に提出した「御領中諸鉱山取調帳」にも当地付近が金・銀山と記されており、実際に穴口では、自然金を含む金鉱脈が発見されている[4][5]。
脚注
参考文献
- 『岩手県史 第五巻 近世篇 2』岩手県、1963年1月30日。
- 蒲田理,2015,盛岡市上太田穴口鹿妻穴堰近傍の金鉱について,岩手の地学,40-46
- 蒲田理『盛岡市上太田穴口鹿妻穴堰近傍の金鉱について』2015年。
- 佐藤実『鎌津田甚六集成』鹿妻穴堰土地改良区。