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'''荻生 北渓'''(おぎゅう ほっけい、[[延宝]]元年([[1673年]])- [[宝暦]]4年[[1月20日 (旧暦)|1月20日]]([[1754年]][[2月11日]]))は、[[江戸時代]]中期の儒学者。[[諱]]は初め玄覧、後に'''観'''(かん)、[[]]は叔達。通称は惣七郎。生前に日本国内で刊行されたのは『[[官准刊行明律]](訓点本明律)』のみで、実兄の[[荻生徂徠]]の著名性に隠れる形で知られていないものの、[[室鳩巣]]と並ぶ[[江戸幕府]]8代[[征夷大将軍|将軍]][[徳川吉宗]]のブレーンとして活躍した。
'''荻生 北渓'''(おぎゅう ほっけい、[[延宝]]元年([[1673年]])- [[宝暦]]4年[[1月20日 (旧暦)|1月20日]]([[1754年]][[2月11日]]))は、[[江戸時代]]中期の[[儒学者]]。[[諱]]は初め'''玄覧'''、後に'''観'''(かん)、[[通称]]は'''惣七郎'''、[[字]]は'''叔達'''。生前に日本国内で刊行されたのは『[[官准刊行明律]](訓点本明律)』のみで、実兄の[[荻生徂徠]]の著名性に隠れる形で知られていないものの、[[室鳩巣]]と並ぶ[[江戸幕府]]8代[[征夷大将軍|将軍]][[徳川吉宗]]のブレーンとして活躍した。


== 経歴 ==
== 経歴 ==
初め、父の後を継いで医師として吉宗に仕えたがすぐに顧問として重用され、[[紅葉山文庫]]に出入りして吉宗の諮問に回答する役目を担い、「名家叢書」と呼ばれた吉宗と学者たちとの問答で今日最も多く残されているのが北渓による「荻生考」であった。同文庫にあった『[[唐律疏義]]』と[[山井]]から託された『[[七経孟子文]]』の校訂を行った。両書はともに後に[[清]]に伝わって現地にて刊行された。また、吉宗の命令で[[清朝探事]]の質問文を作成したとされている。また、彼の『明律』([[明]]の[[律令法]])研究は、吉宗の[[享保の改革]]にも反映されたと言われている。
初め、父の後を継いで医師として吉宗に仕えたがすぐに顧問として重用され、[[紅葉山文庫]]に出入りして吉宗の諮問に回答する役目を担い、「名家叢書」と呼ばれた吉宗と学者たちとの問答で今日最も多く残されているのが北渓による「荻生考」であった。同文庫にあった『[[唐律疏義]]』と、幕命で[[山井崑崙]]『[[七経孟子文]]』の校訂を行った。両書はともに後に[[清]]に伝わって現地にて刊行された。
また、吉宗の命令で[[清朝探事]]の質問文を作成したとされている。また、彼の『明律』([[明]]の[[律令法]])研究は、吉宗の[[享保の改革]]にも反映されたと言われている。


== 参考文献 ==
== 参考文献 ==

2014年7月20日 (日) 15:26時点における版

荻生 北渓(おぎゅう ほっけい、延宝元年(1673年)- 宝暦4年1月20日1754年2月11日))は、江戸時代中期の儒学者は初め玄覧、後に(かん)、通称惣七郎叔達。生前に日本国内で刊行されたのは『官准刊行明律(訓点本明律)』のみで、実兄の荻生徂徠の著名性に隠れる形で知られていないものの、室鳩巣と並ぶ江戸幕府8代将軍徳川吉宗のブレーンとして活躍した。

経歴

初め、父の後を継いで医師として吉宗に仕えたがすぐに顧問として重用され、紅葉山文庫に出入りして吉宗の諮問に回答する役目を担い、「名家叢書」と呼ばれた吉宗と学者たちとの問答で今日最も多く残されているのが北渓による「荻生考」であった。同文庫にあった『唐律疏義』と、幕命で山井崑崙の『七経孟子攷文』の校訂を行った。両書はともに後にに伝わって現地にて刊行された。

また、吉宗の命令で清朝探事の質問文を作成したとされている。また、彼の『明律』(律令法)研究は、吉宗の享保の改革にも反映されたと言われている。

参考文献