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'''安部千太郎'''(あべ せんたろう、1891年1月19日‐1979年1月26日)は明星団の組織者である。
'''安部千太郎'''(あべ せんたろう、[[1891年]]1月19日‐1979年1月26日)は明星団の組織者である。


1861年宮城県の農家に生まれる。尋常小学校4年で、1年生の助教を務めた。仙台中学校に在学中にハンセン病を患い退学する。
1861年宮城県の農家に生まれる。尋常小学校4年で、1年生の助教を務めた。仙台中学校に在学中に[[ハンセン病]]を患い退学する。


1898年に上京し、外国語学校でドイツ語を学んだ。外国語学校在学中の1901年に日本メソジスト教会牧師の高木壬太郎とH・H・コーツから洗礼を受ける。1903年に外国語学校を退学し、棄教して放浪生活を送った。
1898年に上京し、外国語学校で[[ドイツ語]]を学んだ。外国語学校在学中の1901年に[[日本メソジスト教会]]牧師の[[高木壬太郎]]とH・H・コーツから洗礼を受ける。1903年に外国語学校を退学し、棄教して放浪生活を送った。


1906年に前川忠次郎に導かれ、1907年には信仰を回復する。1908年山形県[[楯岡]](村山市楯岡)に出入りし、1910年より柏木聖書学院で半年間聴講し、1911年4年間伊豆大島で保養したのち、1914年より東京で病者伝道を始める。病者団体として明星団を組織する。
1906年に[[前川忠次郎]]に導かれ、1907年には信仰を回復する。1908年[[山形県]][[楯岡]](村山市楯岡)に出入りし、1910年より[[柏木聖書学院]]で半年間聴講し、1911年4年間伊豆大島で保養したのち、1914年より東京で病者伝道を始める。病者団体として明星団を組織する。


1917年には東京田端に転居し、1921年には草津温泉に移り各地を巡回伝道した。
1917年には東京[[田端]]に転居し、1921年には[[草津温泉]]に移り各地を巡回伝道した。


==参考文献==
==参考文献==
*『日本キリスト教歴史大辞典』教文館、1988年
*『日本キリスト教歴史大辞典』教文館、1988年


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2014年4月13日 (日) 07:10時点における版

安部千太郎(あべ せんたろう、1891年1月19日‐1979年1月26日)は明星団の組織者である。

1861年宮城県の農家に生まれる。尋常小学校4年で、1年生の助教を務めた。仙台中学校に在学中にハンセン病を患い退学する。

1898年に上京し、外国語学校でドイツ語を学んだ。外国語学校在学中の1901年に日本メソジスト教会牧師の高木壬太郎とH・H・コーツから洗礼を受ける。1903年に外国語学校を退学し、棄教して放浪生活を送った。

1906年に前川忠次郎に導かれ、1907年には信仰を回復する。1908年山形県楯岡(村山市楯岡)に出入りし、1910年より柏木聖書学院で半年間聴講し、1911年4年間伊豆大島で保養したのち、1914年より東京で病者伝道を始める。病者団体として明星団を組織する。

1917年には東京田端に転居し、1921年には草津温泉に移り各地を巡回伝道した。

参考文献

  • 『日本キリスト教歴史大辞典』教文館、1988年