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'''バラク・フセイン・オバマ・シニア'''('''Barack Hussein Obama, Sr.'''、[[1936年]] - [[1982年]][[11月24日]])とは、[[ケニア]]の政府系エコノミスト(経済学者)であり、第44代[[アメリカ合衆国大統領]]である[[バラク・オバマ|バラク・フセイン・オバマ・ジュニア]]の実父である。 |
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2013年12月7日 (土) 05:45時点における版
バラク・フセイン・オバマ・シニア(Barack Hussein Obama, Sr.、1936年 - 1982年11月24日)とは、ケニアの政府系エコノミスト(経済学者)であり、第44代アメリカ合衆国大統領であるバラク・フセイン・オバマ・ジュニアの実父である。
概要
バラク・フセイン・オバマ・シニアは東アフリカがイギリス領であった時代のケニアのニャンザ州シアヤ県にあるニャンゴマ・コゲロ村に生まれた。父フセイン・オニャンゴ・オバマ(Hussein Onyango Obama)の二番目の妻アクム・ハビバ・オバマ(Habiba Akumu Obama)が母である。
1950年から1953年にかけて、マセノの公立高校で学ぶ。彼についた教師は「とても目端がきいて、しっかりしている。頼りにできるし、愛想もいい」と記録している。1954年、オバマ・シニアは最初の結婚をする。18歳だった。1959年、トム・ンボヤのつくった制度により経済学の奨学生となる。海外への留学の機会を得た。すでに妻とのあいだに子供を設け、しかも彼女は第二子を宿していたが、オバマ・シニアはアメリカへと飛んだ。
彼は23歳でマノアのハワイ大学に入学した。1961年2月、マウイ島で二度目の結婚をする。しかし結婚相手がオバマ・シニアは既婚であることを知るのはずっと後になってからである。同年8月、ジュニアが誕生した。
ハワイ大学を卒業して、ハーバード大学院に入学。ユダヤ系アメリカ人である女性教授と知り合い、経済学の修士課程修了後は彼女とともにケニアへ戻った。後にオバマ・シニアは彼女と三度目の結婚をしている。
1965年、彼は故郷であるケニアへ戻り、石油会社に就職した。またケニア運輸省でエコノミストを務める。後にケニア財務省の上級エコノミストにもなった。
同じ年に「我々の社会主義が直面する諸問題」という論文を発表し、国家プロジェクトの青写真を厳しく批判した。バラク・オバマの回想によれば、この論文は大統領との確執を招き、オバマ・シニアのキャリアを台無しにしてしまった。1969年、彼はその職を解かれ、要注意人物扱いを受けた。
オバマ・シニアは46歳のとき、ナイロビにおける人生で三度目の交通事故で命を落とした[1]。
脚注
- ^ “Obama Overstates Kennedys' Role in Helping His Father”. Washington Post. (2008年3月) 2010年9月5日閲覧。
参考文献
- Obama, Barack. Dreams from my Father. Newyork:Times Books, 1995.