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'''日下部宿禰'''(くさかべのすくね)あるいは'''日下部表米'''(くさかべのひょうまい、うわよね)・表米宿禰と呼ばれる。<ref>『越前朝倉一族』</ref>[[日下部氏]]の始祖とされる人物。7世紀後期から8世紀前期の人物とされる。[[但馬国]]養父郡・[[朝来郡]]の大領。<ref>新井康友 『日下一族』 (昭和五六年 日本家系協会)</ref> |
'''日下部宿禰'''(くさかべのすくね)あるいは'''日下部表米'''(くさかべのひょうまい、うわよね)・表米宿禰と呼ばれる。<ref>『越前朝倉一族』</ref>[[日下部氏]]の始祖とされる人物。7世紀後期から8世紀前期の人物とされる。[[但馬国]]養父郡・[[朝来郡]]の大領。<ref>新井康友 『日下一族』 (昭和五六年 日本家系協会)</ref> |
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2013年9月23日 (月) 16:00時点における版
日下部宿禰(くさかべのすくね)あるいは日下部表米(くさかべのひょうまい、うわよね)・表米宿禰と呼ばれる。[1]日下部氏の始祖とされる人物。7世紀後期から8世紀前期の人物とされる。但馬国養父郡・朝来郡の大領。[2]
出自
開化天皇皇子 彦坐王末裔。[3]
彦坐王の子 狭穂彦王末裔。[4]
孝徳天皇の子有馬皇子と同一視または、その子、表米親王とする説[5]。[6]
子孫に越前朝倉氏・八木氏などがいる。
伝説
大化3年(647年)新羅の軍船が但馬に攻めよせ、丹後国与佐郡白糸浜で迎え撃ち勝利したとされる。 その後、逃げる敵を海上で追撃したが、嵐に遭い船が沈没しそうになった時、海底から無数の鮑が浮き上がり、危機を救っ た。表米は敵を隠岐国まで追い払い、凱旋途中に逆風が吹いた時。再び無数の鮑が船を持ち上げ、さらに美しい船が現れ、その船 の先導で丹後国与佐郡浦島港に入った。表米が大船に行くと誰もおらず、竜宮に住むといわれる大鮑が光っていた。 表米は危機を逃れ勝利したことを海神の加護と悟り、鮑を丁寧に衣服で包み鎧箱に納め、持ち帰り神社を建てあつく祀った。 以後日下部氏子孫は鮑を大事にし、決して食べないといわれる。[7]
墓
赤淵神社裏の久世田加納丘にあると伝えられる。[8]