「アブディ・アシルタ」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
漢数字をアラビア数字に変更しリンクをつなぐ
4行目: 4行目:
当時[[エジプト新王国]]/[[エジプト第18王朝]]時代。シリア地方には無数の小王国が分立していた。ハラブ([[アレッポ]])、[[ウガリト]]、[[アララハ]]、[[エブラ]]、[[カトナ]]、[[カデシュ]]、グブラ([[ビブロス]])、[[ダマスカス]]、ウルサリム([[エルサレム]])そして、[[アムル]]などである。
当時[[エジプト新王国]]/[[エジプト第18王朝]]時代。シリア地方には無数の小王国が分立していた。ハラブ([[アレッポ]])、[[ウガリト]]、[[アララハ]]、[[エブラ]]、[[カトナ]]、[[カデシュ]]、グブラ([[ビブロス]])、[[ダマスカス]]、ウルサリム([[エルサレム]])そして、[[アムル]]などである。


[[アマルナ文書]]には、「エジプトの臣下」と称しながらヒッタイト王[[シュッピルリウマ1世]]と結ぶアブディ・アシルタを警戒するようにと[[アメンホテプ世]]や[[アメンホテプ世]](エクナトン)宛てにしたためた、ビブロス王リブ・アッダ(アディとも。治世前約1375年から1355年頃)の書簡が見られる。
[[アマルナ文書]]には、「エジプトの臣下」と称しながらヒッタイト王[[シュッピルリウマ1世]]と結ぶアブディ・アシルタを警戒するようにと[[アメンホテプ3世]]や[[アメンホテプ4世]](エクナトン)宛てにしたためた、ビブロス王リブ・アッダ(アディとも。治世前約1375年から1355年頃)の書簡が見られる。


なお、アブディ・アシルタの死についても、アマルナ文書中のエクナトン宛てリブ・アッダ書簡 EA 101に言及あり。アブディ・アシルタの後継者はその子ら、プバフラ、ニクメパ、アズィルである。
なお、アブディ・アシルタの死についても、アマルナ文書中のエクナトン宛てリブ・アッダ書簡 EA 101に言及あり。アブディ・アシルタの後継者はその子ら、プバフラ、ニクメパ、アズィルである。

2013年9月16日 (月) 10:30時点における版

アブディ・アシルタ(Abdi-Aširta, Abdi-Ashirta, Abdi-Aschirta ないし Abdi-Ašratu)は、南シリアのアムル王国(→アムル人)の君主。治世は前14世紀(1380年前後?)。とりわけ、このエジプト管理自治州アムルの首邑スムル(シミュラとも)の責任を担った。

当時エジプト新王国エジプト第18王朝時代。シリア地方には無数の小王国が分立していた。ハラブ(アレッポ)、ウガリトアララハエブラカトナカデシュ、グブラ(ビブロス)、ダマスカス、ウルサリム(エルサレム)そして、アムルなどである。

アマルナ文書には、「エジプトの臣下」と称しながらヒッタイト王シュッピルリウマ1世と結ぶアブディ・アシルタを警戒するようにとアメンホテプ3世アメンホテプ4世(エクナトン)宛てにしたためた、ビブロス王リブ・アッダ(アディとも。治世前約1375年から1355年頃)の書簡が見られる。

なお、アブディ・アシルタの死についても、アマルナ文書中のエクナトン宛てリブ・アッダ書簡 EA 101に言及あり。アブディ・アシルタの後継者はその子ら、プバフラ、ニクメパ、アズィルである。