「ニケフォロス3世ボタネイアテス」の版間の差分
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2006年3月3日 (金) 15:20時点における版
ニケフォロス3世ボタネイアテス(Nikephoros III Botaneiates ギリシャ語表記:Νικηφόρος Γ' Βοτανειάτης ?-1081年4月1日)は、東ローマ帝国ドゥーカス王朝の皇帝(在位1078年-1081年)。
時の皇帝・ミカエル7世ドゥーカスの時代、帝国はセルジューク朝の侵攻や皇位をめぐる内紛、財政破綻などから混乱を極め、各地の有力者による内乱も頻繁に勃発していた。このような中、アナトリコン・テマの長官であったニケフォロスは小アジアで反乱を起こし、1078年に首都・コンスタンティノープルで起きた反乱によって退位したミカエル7世の後を継いで、皇帝として即位したのである。このとき、ニケフォロス3世は、ミカエル7世の皇后であったマリアと結婚している。
ニケフォロス3世には男児が無く、マリアとの間にも子供に恵まれなかったため、ミカエル7世とマリアとの間に生まれていた息子・コンスタンティノスを後継者に指名した。しかし、それに不満を抱いた貴族の反乱やセルジューク朝の侵攻などの対策に追われ、内政を顧みる余裕が無く、先代からの帝国の混乱は続いた。
このような中での1081年、アレクシオス・コムネノス(のちの東ローマ皇帝・アレクシオス1世コムネノス)が反乱を起こして首都へ進軍してくると、ニケフォロス3世は退位を余儀なくされ、修道院へ隠退した。
東ローマ帝国ドゥーカス王朝 | ||
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次代 アレクシオス1世コムネノス |