「アブディ・アシルタ」の版間の差分
削除された内容 追加された内容
編集の要約なし |
|||
8行目: | 8行目: | ||
なお、アブディ・アシルタの死についても、アマルナ文書中のエクナトン宛てリブ・アッダ書簡 EA 101に言及あり。アブディ・アシルタの後継者はその子ら、プバフラ、ニクメパ、アズィルである。 |
なお、アブディ・アシルタの死についても、アマルナ文書中のエクナトン宛てリブ・アッダ書簡 EA 101に言及あり。アブディ・アシルタの後継者はその子ら、プバフラ、ニクメパ、アズィルである。 |
||
[[de:Abdi-Aširta]] |
|||
[[en:Abdi-Ashirta]] |
|||
[[hu:Abdi-Asratum]] |
|||
[[it:Abdi-Ashirta]] |
|||
[[ms:Abdi-Ashirta]] |
2013年3月23日 (土) 10:51時点における版
アブディ・アシルタ(Abdi-Aširta,Abdi-Ashirta,Abdi-Aschirta ないし Abdi-Ašratu)は、南シリアのアムル王国(→アムル人)の君主。 治世は前14世紀(1380年前後?)。とりわけ、このエジプト管理自治州アムルの首邑スムル(シミュラとも)の責任を担った。
当時エジプト新王国/エジプト第18王朝時代。シリア地方には無数の小王国が分立していた。ハラブ(アレッポ)、ウガリト、アララハ、エブラ、カトナ、カデシュ、グブラ(ビブロス)、ダマスカス、ウルサリム(エルサレム)そして、アムルなどである。
アマルナ文書には、「エジプトの臣下」と称しながらヒッタイト王シュッピルリウマ1世と結ぶアブディ・アシルタを警戒するようにとアメンホテプ三世やアメンホテプ四世(エクナトン)宛てにしたためた、ビブロス王リブ・アッダ(アディとも。治世前約1375年から1355年頃)の書簡が見られる。
なお、アブディ・アシルタの死についても、アマルナ文書中のエクナトン宛てリブ・アッダ書簡 EA 101に言及あり。アブディ・アシルタの後継者はその子ら、プバフラ、ニクメパ、アズィルである。