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2012年11月18日 (日) 11:28時点における版
駒井重勝(こまい しげかつ、生年不詳 - 寛永12年(1635年))は、安土桃山時代の豊臣政権の大名。文筆に優れ「駒井日記」の著者である。駒井秀勝の子。従五位下、中務少輔。八右衛門。
六角氏に仕えていたが、織田信長により六角氏が滅ぼされたのち、豊臣秀吉に召し出された。大津奉行、草津、矢橋代官を歴任。政治的手腕を秀吉に買われ、豊臣秀次に附けられた。秀次の蔵入地の管理などを司り、また右筆も務める。文禄2年(1593年)、秀次の元を去り、秀吉に直接仕える。そのため、文禄4年に秀次事件に連座することはなかった。その頃には豊後国大野、直入、大分、海士辺郡内2万5000石を領するまでになり、そのうえ、伊勢国安芸郡徳田村、横地村1300石も加増された。越前国の検地奉行なども務める。
処世に長けた重勝であったが、関ヶ原の戦いでは西軍に属して伏見城の戦いに従軍し、戦後失領し浪人となる。その後、加賀藩の前田利長に仕えた。