「ムハンマド・ビン・トゥグルク」の版間の差分
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*「アジア歴史事典」(平凡社) |
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*「中世インドの歴史」(山川出版社) |
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2012年3月3日 (土) 15:21時点における版
ムハンマド=ビン=トゥグルク(? - 1351年、在位:1325年 - 1351年)は、インド北部(一時的にインド全土)を支配したトゥグルク朝の第2代君主。
生涯
初代君主・ギャースッディーン・トゥグルクの子。父と共に多くの戦場に参加し、有能な軍人として名を馳せた。父が1325年に不慮の死を遂げると、後継者として即位する。だが、英主と知られた父の死は敵国を蠢動させ、1327年にはチャガタイ・ハン国軍が来襲する。この来襲ではデリー北部にまで侵食されるほどの大事となったが、ジェーラムの戦いでチャガタイ・ハン国を撃破し、さらにこれに呼応した周辺諸国をも滅ぼした上、現在のアフガニスタンやカズニ地方まで勢力を拡大するという快挙を行なった。
ところがその後、一族や重臣の諫言を無視してデカン高原の西にあるデーヴァギル(遷都後にダゥラタバード改名)に遷都を強行する。さらに通貨改革を実行して逆に偽造通貨が流行して物価の大混乱を招いて失敗した。1334年には周囲の反対が根強かったためにデリーに還都するが、数年にわたって中心地で無くなったデリーはすっかり荒廃しており、この復興に相当の資金をかけることになった。また、どれだけ本気だったのかは不明だが、元に対する遠征を計画している。
このように、数々の内政での失敗と、大成功はしたが大規模な軍事行動による軍費の増大は、財政難と人心の離反を招き、新たな支配地での領主らの反乱を招いた。1336年にはサンガマ家のハリハラによるヴィジャヤナガル王国の独立、1347年にデカン高原のグルバルガでアフガン人傭兵出身の地方長官であるアラーウッデイーン=ハサンが独立してバフマニー朝を建てるに及んで、デカン地方から南インドの版図を失うことになった。
ムハンマドはこれらの反乱を鎮圧するために遠征を繰り返したが、これがかえってさらなる財政難を招く。また、窮余の一策として農地改革を行なったが、これも飢饉が起こり、かえって生産力低下を招くという体たらくとなった。
1351年、反乱鎮圧で遠征していたときに陣中で没した。従弟のフィーローズ=シャー=トゥグルクが後を継いだ。
エピソード
- 史料ではムハンマドのことを「天才か狂人か」と評している。軍事では初期で短期間に大いに成功してほぼインド全土を統一した上に国外にまで領土を拡大し、多くの文人を保護して自らも数ヶ国語の語学力を誇る天才だったが、父の不慮の死(ムハンマドの謀殺?)や遷都の強行などが狂人として挙げられているのではないかと思われる。
- 内治がことごとく失敗した原因として、ムハンマドが無能だったことと、官吏や参謀に有能な人材が枯渇していたことが挙げられる。これはムハンマドが即位後に父時代の功臣(サイフ=ウッディーン=アイバー)らを殺戮したのが一因している。
- ムハンマドの失政で王朝は崩壊寸前だったが、幸運にも後継者のフィーローズ=シャー=トゥグルクは政治の天才で、彼の時代にトゥグルク朝は再び全盛期を迎えた。
参考文献
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