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'''石井 茂成'''(いしい しげなり)は、[[安土桃山時代]]から[[江戸時代]]初期にかけての[[武将]]。[[佐賀藩]]・[[蓮池藩]]の[[家老]]。佐賀藩祖[[鍋島直茂]]の正室[[陽泰院]]の甥で、初代藩主[[鍋島勝茂]]の従兄。 |
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== 子孫 == |
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2012年2月2日 (木) 00:40時点における版
時代 | 安土桃山時代 - 江戸時代初期 |
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生誕 | 不詳 |
死没 | 寛永10年12月6日(1634年1月15日) |
墓所 | 佐賀県佐賀市本庄町鹿子の常照院 |
官位 | 修理亮(但し、受領名) |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 龍造寺政家→鍋島直茂、勝茂、直澄 |
氏族 | 肥前石井氏 |
父母 | 父:石井賢次、母:山田氏女 |
兄弟 | 忠明、百武茂兼、松瀬孫八、茂成 |
妻 | 正室:石井景弘の娘 |
子 |
清次、賢顕、七郎右衛門、沢辺常寿、 長女(石井正純室)、次女(鍋島茂実室) |
石井 茂成(いしい しげなり)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将。佐賀藩・蓮池藩の家老。佐賀藩祖鍋島直茂の正室陽泰院の甥で、初代藩主鍋島勝茂の従兄。
生涯
龍造寺氏の家老石井賢次の四男として生まれる。母は山田氏。又左衛門、修理亮などと称する。兄弟には、忠明、茂兼(百武賢兼養子)、孫八(松瀬利宗養子)、妹(石井信忠室)がいる。諱の「茂成」は、鍋島勝茂より偏諱を受けたものである。
室は石井景弘の娘。子は清次(蓮池藩筆頭家老)、賢顕(佐賀藩士)、七郎右衛門(佐賀藩士)、常寿(佐賀藩士、沢辺源左衛門養子)、娘(石井正純室)、娘(鍋島茂実室)がいる。
父・兄らとともに、龍造寺隆信・政家父子に仕える。龍造寺氏の衰退後は鍋島直茂・勝茂父子に従って、文禄・慶長の役に出陣し活躍。くわえて、伯母・陽泰院の威光により、藩の中枢に抜擢され、知行1,250石を拝領し、家老に就任。また一門の石井正国らとともに蓮池城の城将となる。藩財政の窮乏を憂い、苦心して財政再建五カ年計画私案を書き上げ、藩主勝茂に上程するも、財政再建には失敗する。その他、鍋島家の監視下にあった龍造寺高房の遺児(庶子)伯庵が、佐賀を出奔した際は、勝茂の命を受けて伯庵を追いかけ佐賀に戻るよう説得している。
その後、勝茂の五男鍋島直澄が蓮池藩を立てると、その付家老として従い、晩年は蓮池藩の藩政の基礎を築くために尽力した。
なお、『葉隠』の著述者山本常朝の祖父中野清明が浪人している際、石井家の領地に流れてきた清明を賢次・茂成父子が面会し、清明の器量を見込んで、鍋島直茂に推挙したと伝わり、以降、中野家は佐賀藩の重臣として発展する。