「石井茂成」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
m編集の要約なし
編集の要約なし
21行目: 21行目:
}}
}}


'''石井 茂成'''(いしい しげなり)は、[[安土桃山時代]]から[[江戸時代]]初期の[[肥前国]]の武士で、[[佐賀藩]]・[[蓮池藩]]の家老。佐賀藩祖[[鍋島直茂]]の正室[[陽泰院]]の甥で、初代藩主[[鍋島勝茂]]の従兄。
'''石井 茂成'''(いしい しげなり)は、[[安土桃山時代]]から[[江戸時代]]初期にかけての[[武将]][[佐賀藩]]・[[蓮池藩]]の[[家老]]。佐賀藩祖[[鍋島直茂]]の正室[[陽泰院]]の甥で、初代藩主[[鍋島勝茂]]の従兄。


== 生涯 ==
== 生涯 ==
肥前国の戦国大名[[龍造寺政家]]の家老[[石井賢次]]の四男として生まれる。母は山田氏。又左衛門、修理亮などと称する。兄弟には、長兄忠明、次兄茂兼([[百武賢兼]]養子)、三兄孫八([[松瀬利宗]]養子)、妹([[石井信忠]]室)がいる。諱の「茂成」は、鍋島勝茂より偏諱を受けたものである。
[[龍造寺]]の家老[[石井賢次]]の四男として生まれる。母は山田氏。又左衛門、修理亮などと称する。兄弟には、忠明、茂兼([[百武賢兼]]養子)、孫八([[松瀬利宗]]養子)、妹([[石井信忠]]室)がいる。[[]]の「茂成」は、鍋島勝茂より偏諱を受けたものである。


室は[[石井景弘]]の娘。子は清次(蓮池藩筆頭家老)、賢顕(佐賀藩士)、七郎右衛門(佐賀藩士)、常寿(佐賀藩士、[[沢辺源左衛門]]養子)、([[石井正純]]室)、([[鍋島茂実 (佐賀藩士)|鍋島茂実]]室)がいる。
父・兄とともに、[[龍造寺隆信]]・政家父子に仕える。[[龍造寺氏|龍造寺家]]の衰退後鍋島直茂・勝茂父子に従って、朝鮮役に出陣し活躍。て、伯母陽泰院の威光により、藩の中枢に抜擢され、知行1,250石を拝領し、家老に就任。また一門の石井正国らとともに[[蓮池城]]の城将となる。藩財政の窮乏を憂い、苦心して財政再建五カ年計画私案を書き上げ、藩主勝茂に上程するも、財政再建には失敗する。その他、鍋島家の監視下にあった[[龍造寺高房]]の遺児(庶子)[[龍造寺季明|伯庵]]が、佐賀を出奔した際は、勝茂の命を受けた茂成が伯庵を追いかけ佐賀に戻るよう説得している。その後、勝茂の五男[[鍋島直澄]]が[[蓮池藩]]を立てると、その付家老として従い、晩年は蓮池藩の藩政の基礎を築くために尽力した


父・兄とともに、[[龍造寺隆信]]・[[龍造寺政家|政家]]父子に仕える。龍造寺氏の衰退後鍋島直茂・勝茂父子に従って、[[文禄・慶長の]]に出陣し活躍。て、伯母陽泰院の威光により、藩の中枢に抜擢され、知行1,250石を拝領し、家老に就任。また一門の石井正国らとともに[[蓮池城]]の城将となる。藩財政の窮乏を憂い、苦心して財政再建五カ年計画私案を書き上げ、藩主勝茂に上程するも、財政再建には失敗する。その他、鍋島家の監視下にあった[[龍造寺高房]]の遺児(庶子)[[龍造寺季明|伯庵]]が、佐賀を出奔した際は、勝茂の命を受け伯庵を追いかけ佐賀に戻るよう説得している。
[[葉隠]]の著述者[[山本常朝]]の祖父[[中野清明]]が浪人している際、石井家の領地に流れてきた清明を賢次・茂成父子が面会し、清明の器量を見込んで、鍋島直茂に推挙したと伝わり、以降、中野家は佐賀藩の重臣として発展する。


その後、勝茂の五男[[鍋島直澄]]が[[蓮池藩]]を立てると、その付家老として従い、晩年は蓮池藩の藩政の基礎を築くために尽力した。
室は[[石井景弘]]の娘。子長男清次(蓮池藩筆頭家老)、次男賢顕(佐賀藩士)、三男七郎右衛門(佐賀藩士)、四男常寿(佐賀藩士、[[沢辺源左衛門]]養子)、長女([[石井正純]]室)、次女([[鍋島茂実 (佐賀藩士)|鍋島茂実]]室)がいる。

なお、『[[葉隠]]の著述者[[山本常朝]]の祖父[[中野清明]]が浪人している際、石井家の領地に流れてきた清明を賢次・茂成父子が面会し、清明の器量を見込んで、鍋島直茂に推挙したと伝わり、以降、中野家は佐賀藩の重臣として発展する。


== 子孫 ==
== 子孫 ==

2012年2月2日 (木) 00:40時点における版

 
石井茂成
時代 安土桃山時代 - 江戸時代初期
生誕 不詳
死没 寛永10年12月6日1634年1月15日
墓所 佐賀県佐賀市本庄町鹿子の常照院
官位 修理亮(但し、受領名
幕府 江戸幕府
主君 龍造寺政家鍋島直茂勝茂直澄
氏族 肥前石井氏
父母 父:石井賢次、母:山田氏女
兄弟 忠明百武茂兼松瀬孫八茂成
正室:石井景弘の娘
清次賢顕七郎右衛門沢辺常寿
長女(石井正純室)、次女(鍋島茂実室)
テンプレートを表示

石井 茂成(いしい しげなり)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将佐賀藩蓮池藩家老。佐賀藩祖鍋島直茂の正室陽泰院の甥で、初代藩主鍋島勝茂の従兄。

生涯

龍造寺氏の家老石井賢次の四男として生まれる。母は山田氏。又左衛門、修理亮などと称する。兄弟には、忠明、茂兼(百武賢兼養子)、孫八(松瀬利宗養子)、妹(石井信忠室)がいる。の「茂成」は、鍋島勝茂より偏諱を受けたものである。

室は石井景弘の娘。子は清次(蓮池藩筆頭家老)、賢顕(佐賀藩士)、七郎右衛門(佐賀藩士)、常寿(佐賀藩士、沢辺源左衛門養子)、娘(石井正純室)、娘(鍋島茂実室)がいる。

父・兄らとともに、龍造寺隆信政家父子に仕える。龍造寺氏の衰退後は鍋島直茂・勝茂父子に従って、文禄・慶長の役に出陣し活躍。くわえて、伯母・陽泰院の威光により、藩の中枢に抜擢され、知行1,250石を拝領し、家老に就任。また一門の石井正国らとともに蓮池城の城将となる。藩財政の窮乏を憂い、苦心して財政再建五カ年計画私案を書き上げ、藩主勝茂に上程するも、財政再建には失敗する。その他、鍋島家の監視下にあった龍造寺高房の遺児(庶子)伯庵が、佐賀を出奔した際は、勝茂の命を受けて伯庵を追いかけ佐賀に戻るよう説得している。

その後、勝茂の五男鍋島直澄蓮池藩を立てると、その付家老として従い、晩年は蓮池藩の藩政の基礎を築くために尽力した。

なお、『葉隠』の著述者山本常朝の祖父中野清明が浪人している際、石井家の領地に流れてきた清明を賢次・茂成父子が面会し、清明の器量を見込んで、鍋島直茂に推挙したと伝わり、以降、中野家は佐賀藩の重臣として発展する。

子孫