「セリム3世」の版間の差分
削除された内容 追加された内容
AvocatoBot (会話 | 投稿記録) m r2.7.2) (ロボットによる 変更: sh:Selim III |
編集の要約なし |
||
7行目: | 7行目: | ||
内政においては西洋文明を取り入れることでの近代化を目指し、多くの成果を挙げた。しかし[[ロシア帝国]]([[ロマノフ朝]])との戦いに敗れて[[1792年]]、[[ヤシ条約]]を締結することで和睦したが、その代償として[[クリミア]]と[[グルジア]]における領土を割譲せざるを得なくなった。[[1796年]]、[[フランス]]の[[ナポレオン・ボナパルト|ナポレオン]]が[[エジプト・シリア戦役|エジプト遠征]]を開始すると、[[イギリス]]やロシアと対仏同盟を結んで戦うなど、それなりの外交手腕を見せたが、[[1806年]]にロシアと再び戦争を開始することとなってしまった。ロシアとの蜜月は結局、ナポレオンという脅威があって結ばれたものであって、領土をめぐって争う両国との間で完全な和睦が成立するわけが無かったのである。 |
内政においては西洋文明を取り入れることでの近代化を目指し、多くの成果を挙げた。しかし[[ロシア帝国]]([[ロマノフ朝]])との戦いに敗れて[[1792年]]、[[ヤシ条約]]を締結することで和睦したが、その代償として[[クリミア]]と[[グルジア]]における領土を割譲せざるを得なくなった。[[1796年]]、[[フランス]]の[[ナポレオン・ボナパルト|ナポレオン]]が[[エジプト・シリア戦役|エジプト遠征]]を開始すると、[[イギリス]]やロシアと対仏同盟を結んで戦うなど、それなりの外交手腕を見せたが、[[1806年]]にロシアと再び戦争を開始することとなってしまった。ロシアとの蜜月は結局、ナポレオンという脅威があって結ばれたものであって、領土をめぐって争う両国との間で完全な和睦が成立するわけが無かったのである。 |
||
そして1807年、[[イ |
そして1807年、[[イェニチェリ]]を廃して西洋式の軍制である「[[ニザーム・ジェディード]]」を創設しようとしたため、イェニチェリの反乱によりセリム3世は廃位されてしまった(従弟の[[ムスタファ4世]]が即位)。そして翌年に48歳で死去した。イェニチェリによる殺害と言われている。 |
||
しかし、セリム3世の改革精神は |
しかし、セリム3世の改革精神はその後の皇帝に受け継がれた。 |
||
{{先代次代|[[オスマン帝国の君主|オスマン帝国の皇帝]]|第28代:1789 - 1807|[[アブデュルハミト1世]]|[[ムスタファ4世]]}} |
{{先代次代|[[オスマン帝国の君主|オスマン帝国の皇帝]]|第28代:1789年 - 1807年|[[アブデュルハミト1世]]|[[ムスタファ4世]]}} |
||
{{DEFAULTSORT:せりむ3}} |
{{DEFAULTSORT:せりむ3}} |
2011年12月11日 (日) 12:13時点における版
セリム3世(1761年12月24日 - 1808年7月28日)、オスマン帝国の第28代皇帝(在位: 1789年 - 1807年)。第26代皇帝・ムスタファ3世の子。
1789年、叔父に当たる第27代皇帝・アブデュルハミト1世が死去したため、その後を継いで皇帝として即位した。帝国の歴代皇帝の中では優秀な人物で、無能もしくは暗愚な皇帝が続いたために衰退していた王朝の勢力を盛り返すために国家体制の刷新事業に着手した。
内政においては西洋文明を取り入れることでの近代化を目指し、多くの成果を挙げた。しかしロシア帝国(ロマノフ朝)との戦いに敗れて1792年、ヤシ条約を締結することで和睦したが、その代償としてクリミアとグルジアにおける領土を割譲せざるを得なくなった。1796年、フランスのナポレオンがエジプト遠征を開始すると、イギリスやロシアと対仏同盟を結んで戦うなど、それなりの外交手腕を見せたが、1806年にロシアと再び戦争を開始することとなってしまった。ロシアとの蜜月は結局、ナポレオンという脅威があって結ばれたものであって、領土をめぐって争う両国との間で完全な和睦が成立するわけが無かったのである。
そして1807年、イェニチェリを廃して西洋式の軍制である「ニザーム・ジェディード」を創設しようとしたため、イェニチェリの反乱によりセリム3世は廃位されてしまった(従弟のムスタファ4世が即位)。そして翌年に48歳で死去した。イェニチェリによる殺害と言われている。
しかし、セリム3世の改革精神はその後の皇帝に受け継がれた。
|
|